「菅生事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: Refタグつき記述の除去
222.224.224.30 (会話) による ID:84582531 の版を取り消し
タグ: 取り消し
2行目:
 
== 概要 ==
1952年6月2日、大分県菅生村の駐在所が何者かに爆破され、直ちに日本共産党員ら5名が逮捕・起訴された。[[被告人]]全員が事件との関係を否定したが、一審[[大分地方裁判所]]で全員有罪となる。しかし、その後の[[弁護人|弁護団]]や[[報道機関]]の調査で、事件に現職[[日本の警察官|警察官]]戸高公徳Aが関与していることが明るみに出て、二審[[福岡高等裁判所]]は被告人全員に無罪判決を下した。
 
冤罪事件の1つとして数えられ、公安警察のフレームアップ(でっち上げ)、謀略事件の一種ともされる。なお、戸高Aは日本共産党への潜入捜査の過程で爆発物運搬に関する犯罪を犯したとして起訴、有罪となったが、刑は免除されて警察官に復職した。
 
== 背景 ==
28行目:
「市木」は5月1日に「革命は近いぞ。覚悟はよいか」と書いた脅迫状を駐在所に投げ込んだことも判明した。
 
被告側は[[控訴|控訴審]]中に調査を続けた結果、「市木春秋」を名乗る男が[[国家地方警察大分県本部]](現・[[大分県警察]]本部)[[警備課]]の[[巡査部長]]戸高公徳Aである疑いが強まる。戸高Aは1952年ごろ、ちょうど「市木」が菅生村に姿を現す少し前から行方不明になっていた。弁護団は戸高Aの写真を「市木」を知る村民に見せて回り、その多くから同一人物であるという証言を得たのである。
 
大分新聞と[[大分合同新聞]]が取材を進め、「市木」の正体が戸高Aであることを実名付きで報じたが<ref name=":0" />、警察側は巡査部長は事件とは無関係であることを主張し、また彼は退職して行方不明であると説明した。
 
各報道機関は次々に調査を行い、新聞各紙の特ダネ合戦が開始された<ref name=":0" />。その結果、「市木」は偽名で本名は戸高Aであること、戸高Aが現在は[[国家地方警察]]本部(現・[[警察庁]])の警備課に採用されていること、などが明らかになる。
 
[[1957年]]3月には[[共同通信]]社会部記者の[[斎藤茂男]]らが戸高Aが[[東京都]][[新宿区]]番衆町(現在の[[新宿|新宿五丁目]])の[[アパート]]に潜伏していることを突き止め、取材を敢行。ここでは「東大文学部研究生・佐々淳一」と名乗っていた。また、事件後戸高Aは警察の庇護を受ける形で[[福生市]]や[[警察大学校]]にも潜伏していたことも露見した。
 
この結果、[[法務大臣]]や[[国家公安委員会委員長]]は事件に際して戸高Aを「潜入捜査」に使ったと認めるに至った。[[警察庁長官]]も国会で追及を受け、戸高Aは国警大分県本部[[警備部|警備部長]]の命令で、「警察官という身分を秘匿し、製材所の主人にお願いして働きつつ、党の関係の方々とも接触することによって情報を収集するという任務を果たすこととなった」と答弁している。
 
さらに戸高A自身も検察・弁護両側の証人申請を受けて4月、法廷に立つ。爆破の実行については否定したものの、「潜入捜査」のほか、日本共産党関係者間にダイナマイトを運搬したことを認めた。
 
=== 結末 ===
他方、起訴状によると駐在所に被告人が投げ込んだとされてきたダイナマイトについて、鑑定ではあらかじめ駐在所内部に仕掛けられていたことが判明し、警察の自作自演であることが明らかになった。共同通信記者やA巡査部長戸高の証言と、この鑑定結果によって、[[1958年]]6月9日、福岡高裁は駐在所爆破事件について5被告人全員の無罪判決を言い渡し<ref name=":0" />(ダイナマイト不法所持や刀剣類所持、傷害や脅迫の別件で3人が有罪判決)、1960年1月16日、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]判決で確定した。この時警察による「潜入捜査」も認定されたが、爆破の実行犯は不明とされている。
 
一方戸高Aは潜入捜査中に日本共産党関係者から依頼を受けてダイナマイトを運搬した後に、菅生事件の被告人となる男に渡した[[爆発物取締罰則]]違反で起訴される(駐在所に脅迫状を投げ込んた事件は[[公訴時効]]が成立していた)。一審は「日本共産党関係者から依頼を受けたダイナマイト運搬をしないとその後接触を絶たれて潜入捜査の任務を遂行できなくなり、またダイナマイト運搬は上司に報告し、ダイナマイトを渡した後は可能な範囲で監視しており、潜入捜査をしている者の職責から[[期待可能性]]はない」として無罪。二審では期待可能性を肯定した上で有罪となったが、「ダイナマイト運搬に関する情報を警察の上司に報告したことが[[自首]]にあたる」として刑を免除された。
 
有罪判決から3ヶ月後、警察庁は戸高Aを巡査部長から[[警部補]]に昇任させた上で復職させた。当時の警察庁人事課長は「上司の命令でやむを得ず関係した気の毒な立場を考慮した。今後も同じような犠牲者が出た場合を考えテストケースとしたい」と記者にコメントしている<ref name="aoki"></ref>。
 
=== 戸高公徳Aのその後 ===
戸高Aは復職したのちに、警察大学校教授、警察庁装備・人事課長補佐を歴任しつつ、ノンキャリア組の限界とされる[[警視長]]まで昇任。1985年、警察大の術科教養部長を最後に退職した。さらに、退職後の1987年には[[警察共済組合]]の関連企業である「[[たいよう共済]]」の役員となり1995年5月まで勤め、続いて[[危機管理]]会社「[[日本リスクコントロール]]」へと[[天下り]]した。これらはノンキャリア組警察官としては異例の厚遇である。たいよう共済は警察職員とその家族を対象とした傷害[[保険]]の代理店であり、職員の大半を警察OBが占めている。次のわたり先である日本リスクコントロールもやはり警察OBが幹部を占める会社であった。
 
戸高Aの天下りについては[[1989年]][[10月25日]]の[[参議院]][[予算委員会]]にて、[[日本社会党]](現・[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]])の[[梶原敬義]]議員が、たいよう共済の常務に戸高Aが就任していることを取り上げ公にされた。たいよう共済はパッキーカード([[パチンコ]]の[[プリペイドカード]])を発行する「[[日本レジャーカードシステム]]」の[[資本金]]のうち、9%を[[出資]]していたため、折りしも国会で俎上に載せられていた「パチンコ疑惑」に絡んで暴露されたのである<ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/116/1380/11610251380004a.html|title=参議院会議録情報 第116回国会 予算委員会 第4号|accessdate=2018-08-02|website=kokkai.ndl.go.jp}}</ref>。
 
== 次席検事の証言 ==