「羽柴秀勝」の版間の差分

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{{Otheruseslistotheruses|[[織田信長]]の四男で、[[羽柴秀吉]]の養子に迎えられた'''於次丸秀勝'''人物|秀吉が長浜城主時代に儲けた実子と伝わる'''石松丸秀勝'''その他の用法|羽柴秀勝 (石松丸曖昧さ回避)|秀吉の甥でのちに秀吉の養子となった'''小吉秀勝'''|豊臣秀勝}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 羽柴秀勝
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| 特記事項 =
}}
'''羽柴 秀勝'''(はしば ひでかつ)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[織田信長]]の四男<ref name="five" group="注釈">もしくは『天正記』・『惟任退治記』などでは五男とも言う。史学的推測では[[織田勝長|勝長]](信房)の方が年長であろうという生年の順序の問題のほか、信長の庶長子であるという説がある[[織田信正]]の存在を数えるかどうかでも変わってくる。ただ、諸系図の表記では地位の序列が優先されるため、通例四男とされる。</ref>で、家臣[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[養嗣子]]として迎え入れた。[[幼名]]は'''於次'''(おつぎ)または'''於次丸'''(おつぎまる)。
 
なお、秀吉の子には秀勝が3人おり、他の秀勝と区別するため、史家は便宜上、'''於次丸秀勝'''(または'''於次秀勝''')と呼ぶことがある。
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[[永禄]]11年([[1568年]])、織田信長の四男<ref name="five" group="注釈"/>として生まれた。生母は[[養観院]]と伝えられるが、彼女の素性は不明{{Efn|養観院は(信長の次女)[[相応院 (蒲生氏郷正室)|相応院]]の母と同一人物であるという説もあり、その場合は[[蒲生氏郷]]は於次丸秀勝の義兄弟にあたることになる。}}。童名は「次」<ref name="morioka">{{Cite journal|和書|author=森岡榮一|title=羽柴於次秀勝について|journal=市立長浜城歴史博物館年報|issue=1号|year=1987}}</ref>。
 
[[天正]]4年([[1576年]])10月[[羽柴秀勝 (石松丸)|羽柴石松丸秀勝]]を亡くした秀吉は、主家との養子縁組を願い出て、於次丸を貰い受けて羽柴家の跡継ぎとすることにした。通説では、これは信長が血族を優遇していたことから、自己の地位擁護の意味もあったと考えられている<ref name="p61">{{Harvnb|渡辺|1919|loc=p.61}}</ref>。他方で、[[宮本義己]]は、於次丸を養子に迎えることを希望したのは秀吉ではなく、秀吉の正室[[高台院|おね]]が信長に懇願した結果ではないかと主張し<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己|authorlink=宮本義己|title=北政所の基礎知識|journal=歴史研究|issue=456号|year=1999}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己|title=戦国時代の夫婦とは|journal=歴史研究|issue=488号|year=2002}}</ref>、実子を出産することができなかったおねが主筋の子を我が子として家中の安泰を図ったのではないかと指摘している{{Efn|信長もおねの真意を察したからこそ、夫の浮気に悩む彼女に激励の書状を送っている。この書状は信長が部下の妻にあてたものにしては非常に丁寧な文章であり、消息にもかかわらず、あえて公式文書を意味する「天下布武」の朱印が押されている。}}。
 
於次丸が養子となった時期ははっきりしないが、石松丸秀勝が亡くなった翌年の天正5年から同6年の間と推定される<ref name="morioka" />。天正8年3月の長浜八幡宮の[[奉加帳]]に秀吉と於次丸秀勝の連署が見られ、それ以前と考えられるからである<ref name="p61"/>。
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天正11年([[1583年]])の[[賤ヶ岳の戦い]]に参加。天正12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]にも参加し、近江草津に陣を布き、木曽川筋攻撃で活躍。『[[兼見卿記]]』によるとこの頃より体調が悪化して、途中から[[大垣城]]に留め置かれた。
 
天正13年([[1585年]])7月、[[従三位]]・左近衛権少将に叙され、ほどなく[[正三位]]・[[中納言|権中納言]]にまでなったが、やがて病床に就き、[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]、丹波亀山城で病死した。享年18。[[山科言継]]の日記によれば、この時、母の養観院は存命でこれを看取っ
 
[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]、秀勝は丹波亀山城で病死した。享年18。[[山科言継]]の日記によれば、この時、母の養観院は存命でこれを看取っている。
 
==墓所・肖像画==
墓所は、織田信長の菩提寺として秀吉が建立した大徳寺の[[総見院 (京都市)|総見院]]と、[[知恩寺]]瑞林院([[浄土宗]])、[[高野山]]([[高野山真言宗|真言宗]])、[[阿弥陀寺 (京都市上京区)|阿弥陀寺]]の四ヵ所に存在した。法名は、総見院過去帳では瑞林院殿賢岩才公大禅定門で、高野山の過去帳では大善院松貞圭岩大居士。