「足利義栄」の版間の差分

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正月19日、義栄が朝廷に年頭の御礼を申し上げると、朝廷はこれを認め、義栄の将軍就任が決定的になった{{Sfn|天野|2016|p=81}}{{Sfn|榎原|清水|2017|p=386}}。
 
2月6日、義栄は朝廷に対し、将軍宣下のための費用を献上した{{Sfn|天野|2016|p=81}}{{Sfn|榎原|清水|2017|p=386}}。だが、その中に悪銭が多く混じっていたことから、その受け取りをめぐって騒動があった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=386}}{{Sfn|天野|2016|pp=81-82}}。
 
2月8日、義栄は朝廷から征夷大将軍に任じられ、室町幕府の第14代将軍となった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=386}}{{Sfn|若松|2013|p=59}}。篠原長房ら阿波の諸将にとって、義栄の将軍就任は長年の宿願の達成であった{{Sfn|若松|2013|p=59}}。事実、義栄の将軍就任に一番熱心だったのは、長房であった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=386}}。
この頃、義栄は腫物を患って病床にあり、篠原長房に勧められ、阿波で養生することになった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=388}}。義栄の主力は長房の軍勢であったが、義栄がこうした状況では軍勢も士気が上がらず、長房は信長とは戦わずに兵力を温存する形で、阿波へと撤兵することにした{{Sfn|榎原|清水|2017|p=388}}。
 
10月1日、義栄は篠原長房や三好長治らとともに、阿波へと退いた{{Sfn|若松|2013|p=234}}。義栄は長治らに付き添われ、阿波の撫養に下向したが力尽き、同月にその地で死去した{{Sfn|榎原|清水|2017|p=388}}{{Sfn|若松|2013|p=62}}。一説にはまた、9月の段階で、富田の普門寺において死去していたともいう{{Sfn|榎原|清水|2017|p=388}}。[[享年]]31。
 
いずれにせよ、没した月日に関しては諸説あり、[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]・[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]<ref>『[[公卿補任]]』</ref>・[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]<ref>『[[重編応仁記]]』</ref>・[[10月8日 (旧暦)|10月8日]] <ref>『平島記』</ref>・[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]<ref>『[[公卿補任]]』・『[[足利季世記]]』・『[[阿州将裔記]]』</ref>、[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]<ref>『平島記』・『嶋公方・阿波公方譜』</ref>、と史料によって様々である。また、死去した場所も阿波の撫養、摂津富田の普門寺、淡路など諸説ある。
* 足利氏の菩提寺である[[鑁阿寺]]には他の14人の将軍像とともに、大仏師朝運作とされる義栄の木像が現存し、[[栃木県]]指定有形文化財に指定されている<ref>[http://www.tochigi-edu.ed.jp/center/bunkazai/2312090.htm とちぎの文化財【木造 足利歴代将軍坐像]</ref>。それを模造した像が、[[阿南市立阿波公方・民俗資料館]]に所蔵、常設展示されている。同じように菩提寺であり、室町幕府歴代将軍の木像を安置している[[等持院]]では、[[足利義量]]と義栄の木像は存在しない。
* 偽書とされる『[[江源武鑑]]』においては、義栄の存在は全く無視されている。
*義栄は阿波守護・[[細川持隆]]が殺害されたのち、[[大内氏]]との縁を頼り、天文24年([[1555年]])に父・義維とともに阿波から周防に下向し、永禄6年([[1563年]])に阿波に帰国したとされる{{Sfn|榎原|清水|2017|pp=376-377}}<ref>「足利義栄」『朝日日本歴史人物事典』</ref>。だが、この周防への下向は事実と考えられていない{{Sfn|榎原|清水|2017|pp=376-377}}。
*永禄8年(1566年)11月以降、三好三人衆と[[松永久秀]]が権力抗争を開始すると、義栄は久秀討伐令を出した{{refnest|『続応仁後記』巻8 「三好三人衆與松永彈正牟楯事」<ref group="注釈">"頓而阿波ノ御所義榮エ言上シテ松永退治ノ御教書ヲ申請ケ是即公方家ノ御敵也ト云觸タリ"</ref>}}。
* 松永久秀は、義栄を従弟の松永喜内を用いて暗殺しようとしたが撃退され、仕方ないので[[鴆毒]]を盛って毒殺を命じたと言うが、どうも毒を盛ったというのはさすがに嘘だろう、と『阿州将裔記』には記されている。