「工藤忠」の版間の差分

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'''工藤 忠'''(くどう ちゅう、初名は'''工藤 鉄三郎'''(くどう てつさぶろう)、のち[[満洲国]][[満州国皇帝#執政|執政]][[溥儀]]から「忠」名を与えられて、戸籍上も工藤忠に改名。[[1882年]]([[明治]]15年)[[12月10日]] - [[1965年]]([[昭和]]40年)[[12月18日]])は、明治、[[大正]]、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家([[大陸浪人]])及び満州国の[[政治家]]。[[満州国]]の[[侍衛長]]。最終階級は満州国[[侍衛処長]]、[[宮内府顧問官]]。
 
==経歴人物・生涯==
[[青森県]][[北津軽郡]][[板柳町]]小幡の富農、文右衛門の三男に生まれる。[[東京]]に出てから[[陸羯南]]の影響を強く受け、大陸問題に関心を持ち、東京の[[順天中学校・高等学校|順天中学校]]卒業前に一度大陸へ渡る。[[1905年]](明治38年)[[専修大学|専修学校]]中退後、[[山田良政]]を慕って[[サハリン]]経由で大陸に渡り、[[中国]]における活動を行い、[[第二革命]]のとき[[革命]]運動に身を投じ、その後[[升允]]に出会ってから[[復辟派]]となり、[[清朝]]の復活運動を[[甘粛省]]方面などで行い、[[東亜同文会]]の辺境通信員として膨大な記録も残している。[[1928年]](昭和3年)6月の[[張作霖爆殺事件]]ではいち早く詳細な情報を日本政府首脳に伝えた。[[1931年]](昭和6年)[[11月10日]]の溥儀の[[天津]]脱出の際、溥儀説得役になり、[[満洲]]まで随従した。軍歴が無いにも関わらず、[[1932年]](昭和7年)に[[満州国]]「侍従武官」(中将)に就任し、ついで「侍衛長」(「侍衛官長」「侍衛処長」)となる。[[関東軍]]が軍人でない工藤を排除しようとしたので、執政(のち[[満州国皇帝|皇帝]])溥儀は工藤を護り、かつ工藤を自分の側から離さないという意向を強く示すため、昭和7年「忠」の名を賜った。工藤鉄三郎は[[1935年]](昭和10年)に戸籍上も工藤忠に改名した。
 
溥儀からはは絶大な信頼を受けていたらしく、その著書「わが半生・下巻」では「(工藤は)どこでも私の側に立って発言した。ひそかに関東軍にたいする不満をもらしたことさえあった。あるとき私は茶碗のお茶の色がおかしいように思い、何者かが毒を入れたのではないかと考えて、持って行って検査させようとした。このとき工藤はすぐに茶碗をとりあげるとお茶を一気に飲んでしまった。私が執政になったのち、彼は私を「皇上陛下」と呼ぶ唯一の日本人であり、しかも常に関東軍の横暴に不満をもらし、私がきっと「大清皇帝」の名と位を回復することが出来る、信ずると言っていた。彼の示した忠心は、もっとも典型的な遺臣たちにも決して劣るものではなかったので、私は彼に「忠」の名を賜って改名させ身内として扱ったのである。彼も感激の涙を流し、死をもって忠を尽くし永世変らないことを誓った。」とある。 
 
===エピソード===
== 栄典・授章・授賞 ==
* [[1937年]](昭和12年)[[2月23日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]・[[従軍記章#発行された従軍記章|昭和六年乃至九年事変従軍記章]]<ref>『官報』第3068号「敍任及辞令・二」1937年3月27日。</ref>
 
==エピソード==
* [[サハリン]]経由で大陸に渡るため、凍結した[[間宮海峡]]を徒歩で横断した。
* [[日露戦争]]直前、[[北京]]にいた日本の特務活動に参加して[[ハルビン]]で破壊工作しようとしたが、重い[[脚気]]にかかり、参加できず日本に帰国した。
* 昭和10年(1935年)4月13日、満州国皇帝となった溥儀が来日したとき、工藤忠が満州国皇帝の特使として[[川島芳子]]邸を訪れている。
* 戦後、[[東京裁判]]では新聞記者と偽り出廷した溥儀の証言を傍聴している。
 
== 栄典・授章・授賞 ==
* [[1937年]](昭和12年)[[2月23日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]・[[従軍記章#発行された従軍記章|昭和六年乃至九年事変従軍記章]]<ref>『官報』第3068号「敍任及辞令・二」1937年3月27日。</ref>
 
==生家==
2007年7月26日、生家が整備され資料館「工藤忠閣下生家・皇帝の森」として開館。当時の礼服、満州国皇帝との写真などが展示されている。
 
== 脚注 著作物==
*『皇帝溥儀 私は日本を裏切ったか』1952年。{{全国書誌番号|53001398}}
*{{Cite journal |和書 |author= |year=1956 |title=皇帝溥儀は何を考えていたか |journal=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] |volume=34 |issue=9 |pages=258-266 |doi= |url= |publisher=文芸春秋社 |place= |language=ja |ref=harv }}{{ncid|AN00278208}}
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==参考文献==
{{参照方法|date=2018年4月|section=1}}
*{{Cite book|和書|author=愛新覚羅溥儀|others=[[小野忍]]・[[新島淳良]]・[[野原四郎]]訳|year=1977|month=12|title={{仮リンク|わが半生|zh|我的前半生}}「満州国」皇帝の自伝|volume=上・下|series=筑摩叢書|publisher=筑摩書房}}
*自身による著作「[[皇帝溥儀 私は日本を裏切ったか]]」 工藤忠 著(1952年)
*[[秋永芳郎]] 『[[黒い落日]]』1965年。歴史小説。
*自身による著作「皇帝溥儀は何を考えていたか」 工藤忠 著(1956年)
*[[工藤忠の子孫による記録「哲雄]] 『工藤忠の生涯 大陸に命をかけた男」[[工藤哲雄]] 著(1990』1990{{全国書誌番号|92020054}} - 工藤忠の子孫による記録
*自身による著作「皇帝溥儀」 工藤忠 著
*小説「[[いずみ涼]] 『皇帝の森-ラストエンペラー溥儀と工藤忠」 [[いずみ涼]] 著(現在、』2009年。[[陸奥新報]]に連載中)された。
*皇帝自身の著作「わが半生」 愛新覚羅溥儀 著
*[[山田勝芳]] 『溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国』[[山田勝芳]] 著(20102010
*歴史小説「[[黒い落日]]」[[秋永芳郎]] 著(1965年)
*工藤忠の子孫による記録「工藤忠の生涯 大陸に命をかけた男」[[工藤哲雄]] 著(1990年){{全国書誌番号|92020054}}
*小説「皇帝の森-ラストエンペラー溥儀と工藤忠」 [[いずみ涼]] 著(現在、[[陸奥新報]]に連載中)
*『溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国』[[山田勝芳]] 著(2010年)
 
== 外部リンク ==
*{{kotobank|工藤 忠}}
* {{Wayback|url=http://blogs.yahoo.co.jp/kudocyu |title=ファンのブログ |date=20191101000000}}
*{{kotobank|工藤鉄三郎}}
* {{Wayback|url=http://blogs.yahoo.co.jp/kudocyu |title=ファンのブログ |date=20191101000000}}
 
{{Normdaten}}