「四阪島」の版間の差分

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| major islands = 家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島
| area km2 = 1.26
| area footnotes = <ref name="kotobank">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E9%98%AA%E5%B3%B6-73143 |title=四阪島とは |publisher=コトバンク |accessdate=2020-11-08}}</ref><ref name = "shimadas">{{Cite book|和書|editor=公益財団法人日本離島センター |title=新版SHIMADAS |publisher=公益財団法人日本離島センター |year=2019 |page=641 |isbn=978-4-931230-38-5 }}</ref>
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| length km = <!-- or length m -->
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| coastline km = <!-- or coastline m -->
| coastline footnotes =
| elevation m = 110112
| elevation footnotes = <ref name = "shimadas" />
| highest mount = <!--name-->美濃島
| Country heading = 国
| country = {{JPN}}
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| additional info = 全島[[住友金属鉱山]]が所有する私有地
}}
'''四阪島'''(しさかじま)は、[[瀬戸内海]]の[[燧灘]]、[[今治市]][[大島_(愛媛県今治市)|大島]]の南東約10km、[[愛媛県]][[新居浜市]]の北北東約18kmに浮かぶ5つの[[島]](家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島)の総称である{{Refnest|group="注釈"|name="totalislands"|ただし、場合によっては梶島を除いた4島の総称であるとされることもある<ref name="kotobank" /><ref name = "shisakaseirenjo">{{Cite web |url=https://www.smm.co.jp/corp_info/location/domestic_group/shisaka/ |title=四阪製錬所(製錬)|会社情報 |publisher=[[住友金属鉱山|住友金属鉱山株式会社]] |accessdate=2021-09-12}}</ref>。なお、5島を所有する[[住友金属鉱山]]のホームページでは、梶島を除く4島で四阪島と紹介されている<ref name = "shisakaseirenjo" />。}}<ref name="kotobank" /><ref name = "shimadas" />。全域が愛媛県今治市(旧[[越智郡]][[宮窪町]])に属する。また、同市の地名として[[住所|住所表記]]にも用いられており、四阪島に属する島々の住所表記は、愛媛県今治市宮窪町四阪島となる。郵便番号は、792-0080。
 
== 概要 ==
[[File:Shisakajima Islands, Imabari Ehime Aerial photograph.2009.jpg|thumb|left|280px|四阪島の空中写真。右下から時計回りに美濃島、家ノ島、鼠島、梶島、明神島。2009年4月15日撮影の5枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成されるが、一般に「四阪島」と呼称される<ref group="注釈", name="totalislands" /><ref name = "shimadas" />。[[愛媛県]][[今治市]](旧[[宮窪町]])に属するが、産業的にも社会的にも同県[[新居浜市]]と深いつながりがある。
 
現在、家ノ島には[[住友金属鉱山]]の子会社[[四阪製錬所]]の工場があり<ref name = "shisakaseirenjo" />、全島が住友金属鉱山の所有(管理下)となっている<ref name = "shimadas" />。ただし島には住民はおらず、工場の従業員は定期船で新居浜から通っている。
 
== 沿革・歴史 ==
[[1691年]](元禄4年)に[[別子銅山]]が開坑して以来、住友は[[銅]]の[[製錬]]事業所を、別子銅山麓の山根地区、[[新居浜港]]地区(現在の[[新居浜市]][[惣開町]]<ref name="kotobank" />)と移してきた。しかし、いずれも[[二酸化硫黄|亜硫酸ガス]]による[[煙害]]の問題により木が大量に枯死するなどした。当時の別子銅山の支配人をしていた[[伊庭貞剛]]の決断で新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に製錬所を移すことになった。[[1895年]](明治28年)に住友は四阪島を買収{{Refnest|group="注釈"|このタイミングでは、四阪島の内、梶島は買収されておらず、昭和時代に入ってから別途買収され、全島が住友の所有となっている<ref name = "shimadas642">{{Cite book|和書|editor=公益財団法人日本離島センター |title=新版SHIMADAS |publisher=公益財団法人日本離島センター |year=2019 |page=642 |isbn=978-4-931230-38-5 }}</ref>。}}<ref name="kotobank" /><ref name = "shimadas" />。[[1905年]](明治38年)より精錬所の操業を開始した<ref name="kotobank" /><ref name = "shimadas" />。
 
同時期、[[足尾銅山]]などでもこの問題は深刻化しており、足尾銅山の公害問題を追及していた[[田中正造]]は、別子銅山の精錬所が無人島に移転したことを称賛し、[[1901年]](明治34年)[[3月23日]]第15回帝国議会において「伊予の国の別子銅山は、第一鉱業主は[[住友財閥|住友]]である、それ故社会の事理(ことわり)人情を知って居る者で、己が金を儲けさえすれば宜いものだと云うような、そう云う間違いの考えを持たない」と演説した<ref>[https://www.sumitomo.gr.jp/history/person/ibate_01/ 伊庭貞剛 その1 住友グループ広報委員会]より。</ref>。
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しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる結果となり、[[越智郡]]のみならず[[周桑郡]]、[[新居郡]]、[[宇摩郡]]と、[[東予地方]]ほぼ全域が被害を被った<ref name="kotobank" />。[[1909年]](明治42年)、国の鉱毒調査委員会は短い多数の煙突で亜硫酸ガスを大気と希釈させる方法を提案。[[1915年]](大正4年)までに6本の煙突が完成して稼働するも、四阪島一帯がより高濃度の亜硫酸ガスに覆われて失敗に終わる<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』311頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.besshi.net/hp/eco/01/007/02.htm |title=四阪島精錬所 |publisher=愛媛県立新居浜南高等学校 |date= |accessdate=2021-08-12}}</ref>。
このため、精錬所の精錬鉱量の制限や保証金支払いが行われた<ref name="kotobank" />。この被害は、[[1930年]](昭和5年)ペテルゼン式脱硫装置の設置そして[[1939年]](昭和14年)の硫煙処理装置の設置まで続いた<ref name="kotobank" /><ref name = "shimadas" />。なお、この時の補償金をもって越智郡は越智中学校を設置。同校は今日の[[愛媛県立今治南高等学校]]の前身である。
 
最盛期は[[大正]]末期で、この時期は人口5,500人を超えており、[[1960年代]]前半においても約4,000人の人口を抱えていた<ref name = "shimadas" />。しかし、[[1973年]](昭和48年)の別子銅山の閉山に加えて、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下し、順次合理化が図られた<ref name = "shimadas" />。[[1976年]](昭和51年)12月に溶鉱炉の火は消え、1977年(昭和52年)4月には一部の工場関係者を除く島民は島を離れ、小中学校も廃校となった<ref name = "shimadas" />。同じように瀬戸内の離島で大正以降[[三菱マテリアル|三菱]]の銅精錬の島であった[[香川県]][[直島町|直島]]と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、もとから集落の栄えていた直島と異なり、元々無人島だった四阪島は[[1988年]](昭和63年)以降、無人島へと戻った。71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼるという<ref name = "shimadas" />
 
ただ銅の精錬所に加えて、1977年(昭和52年)には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成しており、従業員は新居浜港[[製鉄]]の過程で排出される[[製鋼煙灰]]から船で通勤[[亜鉛]]を回収するリサイクル事業を行っている<ref name = "shisakaseirenjo" />工場は現在も稼動中50人程度の従業員が島内従事しており、毎日この従業員は新居浜港から事業用の定期便のが出ており、島内は50人前後の人数が従事通勤している<ref name = "shimadas" />
 
なお、四阪島の工場は住友金属鉱山四阪工場として運営されていたが、2010年10月に住友金属鉱山から[[四阪製錬所|株式会社四阪製錬所]]として分社化され、同社の工場として操業が続いている。
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File:Shisakajima Old photograph.jpg|住友別子鉱業所四阪島製錬所(当時)
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== 交通 ==
[[新居浜港]]から住友金属鉱山の専用船(高速船、普通船)が出ている([[住鉱物流]]が運航、乗船は関係者に限る)<ref name = "shimadas" />。給水船への便乗となる場合もある。
 
== 構成する島々 ==
=== 家ノ島 ===
別子銅山の銅製錬所が建設された。現在は、[[四阪製錬所|株式会社四阪製錬所]]の亜鉛リサイクル工場が稼働している<ref name = "shisakaseirenjo" />。島全体が工場の敷地となっており、隣接する美濃島とは陸続きとなっている。
 
=== 美濃島 ===
四阪島が有人島の時代には、家ノ島の製錬所の従業員の生活拠点が建設された<ref name = "shimadas" />。最盛期1000戸を数えた階段状の社宅の他、保育所や小中学校、診療所の他、火葬場まで整備されていた<ref name = "shimadas" />。[[1906年]](明治39年)に建築された四阪別邸(日暮別邸)が残っていたが、[[2018年]](平成30年)に四国本土(新居浜市王子町)に移築され、[[日暮別邸記念館]]として活用されている<ref name = "shimadas" />。
 
=== 明神島 ===
家ノ島の北に所在する無人島で、面積0.41km<sup>2</sup>、標高95m<ref name = "shimadas642" />。美濃島の社宅完成迄の仮設社宅が建設されており、[[1907年]](明治40年)から[[1909年]](明治42年)まで利用された<ref name = "shimadas642" />。その後は、入植者により耕作地が開墾され、美濃島へ野菜を供給していたが、[[1970年]](昭和45年)に無人島化した<ref name = "shimadas642" />。有人島時代には、[[海水浴場]]や[[公園]]も開設されていた<ref name = "shimadas642" />。
 
=== 鼠島 ===
家ノ島の西に所在する無人島で、面積0.04km<sup>2</sup>、標高54m<ref name = "shimadas642" />。四阪島の火葬場と納骨堂が設置されており、後に美濃島で同様の施設が整備されるまで利用された<ref name = "shimadas642" />。
 
=== 梶島 ===
明神島の西に所在する無人島で、面積0.19km<sup>2</sup>、標高78m<ref name = "shimadas642" />。四阪島の他の島々とは少し離れた位置に所在しており、場合によっては四阪島に含まれない<ref name="kotobank" /><ref name = "shisakaseirenjo" />。[[第二次世界大戦]]前は採石場があったが、[[1945年]](昭和20年)に住友が買収し、耕作地が開墾された<ref name = "shimadas642" />。明神島と同じく美濃島へ野菜を供給していたが、[[1957年]](昭和32年)には無人島化している<ref name = "shimadas642" />。その後に再入植者が居たものの、[[1974年]](昭和49年)には、再度無人島化している<ref name = "shimadas642" />。
 
== その他 ==
島内には精錬所の[[キューポラ]]など多数の[[産業遺産]]があり、特に美濃島には最盛期1000戸を数えた階段状の社宅がある。島のシンボルでもあった高さ64mの大煙突は、老朽化のため2013年に解体された<ref>{{Cite news|title=さようなら大煙突 新居浜沖・四阪島 解体ほぼ終了 「煙害克服の日」船上ツアーに36人|url=http://www.ehime-np.co.jp/rensai/hotnews/ren111201307049946.html|newspaper=[[愛媛新聞]]|date=2013-07-04|accessdate=2014-05-15}}</ref>。2014年9月、新居浜市にある大山積神社境内に、煙突のコンクリート製模型(縮尺1/25)と、住友家第16代当主[[住友友成]]が1940年に島を題材に詠んだ短歌碑が建立された<ref>{{Cite news|title=四阪島大煙突の歴史後世に 模型と歌碑建立|url=http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20140925/news20140925223.html|newspaper=[[愛媛新聞]]|date=2014-09-25|accessdate=2014-09-25}}</ref>。
 
また、保育所、小中学校、病院、郵便局のほか、劇場等の娯楽の場、商店街、神社・寺院さらには火葬場まであったとされるが、全島企業所有地であり、また四国本土からやや距離があることから、観光交流目的での活用は行われていない。昭和50年代まであった島の小中学校の卒業生の集まり等は行われている。