「二宮尊徳」の版間の差分

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文政4年([[1821年]])、二度目の伊勢詣でから戻った金治郎は、小田原藩主[[大久保氏|大久保家]]の分家・宇津家の[[旗本]][[地方知行|知行所]]であった[[下野国]][[芳賀郡]]桜町<ref group="注釈">現在の[[栃木県]][[真岡市]]、なお合併前の[[二宮町 (栃木県)|二宮町]]の町名の由来は尊徳である。</ref> が荒廃しているということで、その再興救済を藩主より命じられた。文政6年([[1823年]])、金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されて、桜町に移住して再建に着手した。
 
文政9年([[1826年]])には宇津家家臣・横山周平が同役勤番となって江戸に行ったため、金次郎が組頭格に昇進して桜町主席となった。再建は村民の抵抗にあって難航していたが、[[天保]]2年([[1831年]])には正米426俵を納める成果を上げるに至り、同5年には1,330俵を返納し、同7年には封地4,000石租900石の所を実収3,000石にまで増やしたので、分度(支出の限度)を2,000石に定めて再建を成し遂げた。その方法は[[報徳仕法]]として他の範となる。但しこれらの復興政策は必ずしも上手く行ったというわけではなく、村人らに反感を持たれ、上司である[[豊田正作]]に妨害されたときは突然行方不明になった。間もなく成田山で断食修業していることが判明し、修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていたという。
 
=== 晩年 ===
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