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文帝の後に[[煬帝]]が立って[[隋の高句麗遠征|高句麗遠征]]を開始すると、李淵は懐遠鎮で[[兵站]]を監督した。やがて[[楊玄感]]の乱が起こると弘化留守となり、関右の諸軍を統率して楊玄感の進軍を防いだ。615年に[[山西省|山西]][[河東]]慰撫大使に任じられると、龍門の[[母端児]]の乱を掃討、また[[絳州]]の[[柴保昌]]を討伐した。[[突厥]]が隋の辺境を侵すと、[[馬邑]]太守の[[王仁恭]]とともに突厥軍を撃退した。617年には[[太原市|太原]]留守に任じられた。
 
次子の[[太宗 (唐)|李世民]]や晋陽令の[[劉文静]]らの使嗾により<ref group="注釈">『[[旧唐書]]』、『[[新唐書]]』の両[[正史]]では、李淵の挙兵は李世民の画策によるものとされている。しかし挙兵当時には未成年だった李世民の策謀で李淵が動かされたというのは疑わしい。太宗李世民を最高の名君に仕立て上げるために、高祖李淵の人物像は優柔不断で女と酒に弱い人物として矮小化され、李世民を唐の実質的な創建者として美化したものと考えられる。これは[[布目潮渢]]などの説。</ref>、隋に対する反乱を決意。6月に諸郡に檄を飛ばして起兵し、一気に軍を南下させ、11月には長安(当時は大興城)を陥れた。また煬帝の太上皇帝への退位を宣言し、首都長安の留守を命じられていた代王[[恭帝侑|楊侑]]を新たに擁立して隋の恭帝とした<ref>新唐書 高祖本紀「癸亥,遙尊隋帝為太上皇,立代王為皇帝。」</ref>。加えて618年3月には恭帝の詔として相国への昇進と九錫の下賜を受けたが、これに対し李淵は「これは私に阿り諂う者の差し金であろう。魏、晋の建国者らは上辺だけを取り繕って天や人を欺き、その実は五覇にも及ばないにも拘らず三王以上の名声を欲した。常々これを軽蔑していた私が、なぜ奴らと同じ真似ができよう」と述べ、相国の座のみを受諾し、九錫の贈呈を固辞した<ref>資治通鑑 185巻「戊辰,隋恭帝詔以十郡益唐國,仍以唐王為相國,總百揆,唐國置丞相以下官,又加九錫・・・」</ref>。
 
=== 即位後 ===