「一柳直重」の版間の差分

**男子:[[一柳直照]]
 
直重の正室は寛永11年(1634年)8月16日没{{sfn|一柳貞吉|1933|p=28}}。[[伊勢国]][[河芸郡]]西野村(現在の三重県鈴鹿市西条)の妙祝寺に葬られた{{sfn|一柳貞吉|1933|p=28}}。法号「栄法院殿妙唱日繁大姉」{{sfn|一柳貞吉|1933|p=28}}{{efn|後述の妙昌寺の命名由来によれば「妙唱」は「妙昌」であるべきと見られるが、出典{{sfn|一柳貞吉|1933|p=28}}のままとする。}}。愛媛県西条市の日栄山[[妙昌寺 (西条市)|妙昌寺]]は、その菩提を弔うために建立されたという{{sfn|一柳貞吉|1933|p=29}}{{efn|『一柳家史紀要』は直興の発願で建てられたとしているが、妙昌寺では寛永14年(1636年)に直重が建立したとし、山号と寺号は母(日栄)と室(妙昌)の法諡から採られているという<ref>{{cite web|url=http://nichieizan.jp/myosyoji.html|title=日榮山妙昌寺|publishet=妙昌寺|accessdate=2021-9-14}}</ref>}}。
 
『寛政譜』では二男直照を直興と同母としているが<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>、『一柳家史記紀要』{{efn|直照末裔の一柳家の史料を中心に、昭和初期に編纂された書物。}}では一柳盛晴の娘とする{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}。一柳盛晴は、[[一柳直末]](直重の伯父)の娘婿となった稲葉源左衛門尉(一柳右京)末晴の二男で、その兄の直晴は一時期[[一柳直盛]](直重の父)の養子になっていたという人物である{{sfn|一柳貞吉|1933|p=55}}。一柳氏は正室栄法院没後は「後室に準る扱い」を受けたというされ{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}慶安5年(1652年)4月3日に没{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}西条市福武の[[常福寺 (西条市)|常福寺]]に葬られた{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}。法号「長養院殿菊源景広大姉」{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}。
 
== 脚注 ==