「一柳直重」の版間の差分

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| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 直指院殿見叟宗性禅定門{{sfn|一柳貞吉|1933|p=35}}<ref name="ehime_7519"/>
| 霊名 =
| 墓所 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]の[[金地院 (東京都港区)|金地院]]
| 特記事項 =
}}
'''一柳 直重'''(ひとつやなぎ なおしげ)は、[[伊予国]][[西条藩]]の第2代[[藩主]]。初代藩主[[一柳直盛]]の[[長男]]。父は入封途中に病死したため、直重が西条に入国したことによって実質的に西条藩が成立したと言える<ref name="ehime_7519"/>
 
== 生涯 ==
=== 前半生 ===
慶長3年(1598年)<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>{{sfn|一柳貞吉|1933|p=35}}、[[尾張国]][[尾張黒田藩|黒田城主]]であった[[一柳直盛]]の長男として[[山城国]][[伏見]]において生まれた<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。父は関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601年)に[[一柳直盛伊勢国]]の長男として生ま[[神戸藩]]5万石に移封さ<ref name="kanseifu603_kokumin156kanseifu603_kokumin155"/>。
 
慶長14年([[1609年]])、12歳で従五位下丹後守に叙任<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。この年、駿府で徳川家康に、江戸で徳川秀忠にそれぞれ拝謁<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の陣]]では父と共に参戦している<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。以後、徳川秀忠や徳川家光の上洛・日光社参に供奉<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。寛永10年(1633年)には、[[九鬼久隆]]転封後の[[鳥羽城]]守衛を父直盛や弟直頼とともに命じられている<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。
 
=== 西条藩主 ===
[[寛永]]13年([[1636年]])8月19日、[[伊予国]][[西条藩]]6万3000石への移封を受け、西条赴く途中直盛大坂で死去<ref name="kanseifu603_kokumin155"/>。同年11月24日に父の遺領は3人うち男子によって分割された。直重は[[宇摩郡|宇摩]]・[[新居郡|新居]]・[[周布郡|周布]]の3郡にまたがる3万石を継承して伊予西条藩主となった<ref name="kanseifu603_kokumin156"/><ref name="ehime_4582"/>。このとき、次弟の直家に2万3000石余([[川之江藩]]→[[小野藩]])、三弟の直頼に1万石([[小松藩]])分与されている<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。
 
西条藩は直重の入国によって実質的に成立したと言え<ref name="ehime_7519"/>、藩政の確立に努めた。[[西条平野]]北部の新居郡神拝村に[[西条陣屋]]を置き、喜多川の水路を付け替えて陣屋に濠を巡らせ、余水を海に流すために本陣川を開削した{{efn|河口部を港とし、これが西条港の起源とされるが、西条港の本格的な整備は近代に入ってからである<ref name="ehime_4589"/>。松平氏の時代の領内の主要港は市塚港と新兵衛港で、藩の公用には市塚港が用いられ、石鎚山への参詣客は[[氷見町|氷見]]の新兵衛港を多く利用したといい<ref name="ehime_4589"/>、本陣川河口の港は近隣の漁民が漁船の停泊場とした程度であったという<ref name="ehime_4589"/>。}}<ref name="ehime_4582"/><ref name="ehime_4589"/>。陣屋とそれを取り巻く武家屋敷地{{efn|現在の明屋敷(あけやしき)地区。明屋敷という名称には一柳家が改易されて収公された際、藩士が退去して「空き屋敷」になったためという説がある<ref name="ehime_4582"/>}}の東側に町人屋敷を置いて陣屋町(喜多浜町{{efn|松平氏治世の延宝8年(1680年)以降、本町・中之町・魚屋町・大師町・横町・紺屋町の各町名で呼ばれる<ref name="ehime_4582"/>。明治期の町村制施行で「御城下町」と明屋敷が合併して[[西条町 (愛媛県)|西条町]]が発足する。}})の構築を行った<ref name="ehime_7519"/>。陣屋構築以前にすでに[[金毘羅街道]]沿いに町場が形成されて繫栄していた大町から有力商人を移住させた<ref name="ehime_4582"/><ref name="ehime_4585"/>。[[加藤嘉明]]の家臣[[足立重信]]が着手していたとされる[[加茂川 (愛媛県)|加茂川]]の治水工事を継続<ref name="ehime_7519"/>。新田開発を進めたために加茂川下流域には広大な新田地帯が出現した<ref name="ehime_7519"/>。
藩主として、陣屋町(喜多浜町)の構築や[[加茂川 (愛媛県)|加茂川]]の治水工事、新田開発などを行なって藩政の確立に尽くした。寛永17年([[1640年]])の[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]の[[生駒高俊]][[改易]]においては、[[松平定房]]や[[加藤泰興]]と共に高松城在番を務めた<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。
 
藩主として、陣屋町(喜多浜町)の構築や[[加茂川 (愛媛県)|加茂川]]の治水工事、新田開発などを行なって藩政の確立に尽くした。寛永17年([[1640年]])の[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]の[[生駒高俊]][[改易]]された際おいては、今治藩主[[松平定房]]や大洲藩主[[加藤泰興]]と共に高松城在番を務めた<ref name="kanseifu603_kokumin156"/><ref name="ehime_7519"/>。
 
正保2年(1645年)6月24日死去、48歳{{sfn|一柳貞吉|1933|p=35}}<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>。跡を長男の[[一柳直興|直興]]が継いだ。
**男子:[[一柳直照]]
 
直重の正室は寛永11年(1634年)8月16日没{{sfn|一柳貞吉|1933|p=28}}。[[伊勢国]][[河芸郡]]西野村(現在の三重県鈴鹿市西条)の妙祝寺に葬られた{{sfn|一柳貞吉|1933|p=28}}。法号「栄法院殿妙唱日繁大姉」{{sfn|一柳貞吉|1933|p=28}}{{efn|後述の妙昌寺の命名由来によれば「妙唱」は「妙昌」であるべきと見られるが、出典{{sfn|一柳貞吉|1933|p=28}}のままとする。}}。愛媛県西条市の日栄山[[妙昌寺 (西条市)|妙昌寺]]は、その菩提を弔うために建立されたという{{sfn|一柳貞吉|1933|p=29}}{{efn|『一柳家史紀要』は直興の発願で建てられたとしているが、name="myoshoji"|妙昌寺では寛永14年(1636年)に直重が建立したとし、山号と寺号は母(日栄)と室(妙昌)の法諡から採られているという<ref>{{cite web|url=http://nichieizan.jp/myosyoji.html|title=日榮山妙昌寺|publishet=妙昌寺|accessdate=2021-9-14}}</ref>。『愛媛県史』では、直重が「大坂で没した母の栄法院殿」の菩提を弔うために建立したとしている(『[[西条誌]]』を出典としている)<ref name="ehime_7309"/>。『一柳家史紀要』は直興の発願で建てられたとしている{{sfn|一柳貞吉|1933|p=29}}。}}。
 
『寛政譜』では二男直照を直興と同母としているが<ref name="kanseifu603_kokumin156"/>、『一柳家史記紀要』{{efn|直照末裔の一柳家の史料を中心に、昭和初期に編纂された書物。}}では一柳盛晴の娘とする{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}。一柳盛晴は、[[一柳直末]](直重の伯父)の娘婿となった稲葉源左衛門尉(一柳右京)末晴の二男で、その兄の直晴は一時期[[一柳直盛]](直重の父)の養子になっていたという人物である{{sfn|一柳貞吉|1933|p=55}}。一柳氏は正室栄法院没後は「後室に準じる扱い」を受けたとされ{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}、慶安5年(1652年)4月3日に没{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}。西条市福武の[[常福寺 (西条市)|常福寺]]に葬られた{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}。法号「長養院殿菊源景広大姉」{{sfn|一柳貞吉|1933|p=31}}。
 
== 備考 ==
*西条の常福寺(臨済宗)<ref>{{cite web|url=http://www.saijo-imadoki.jp/2020/04/30/%E5%B8%B8%E7%A6%8F%E5%AF%BA/|title=常福寺|publisher=西条市観光物産協会|accessdate=2021-9-15}}{{要高次出典|date=2021年9月}}</ref>・本善寺(浄土宗)<ref name="ehime_7309"/>・満福寺(浄土真宗)<ref name="ehime_7309"/>は一柳氏転封にともない伊勢神戸から移された寺である。ほかに直重は妙昌寺(日蓮宗)を創建し<ref name="ehime_7309"/>{{efn|name="myoshoji"}}、善導寺(浄土宗)の開基となったという<ref name="ehime_7309"/>。
 
== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="kanseifu603_kokumin155">『寛政重修諸家譜』巻第六百三、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/86 国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.155]、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.155。</ref>
<ref name="kanseifu603_kokumin156">『寛政重修諸家譜』巻第六百三、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/87 国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.156]、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.156。</ref>
}}
 
<ref name="ehime_4582">{{cite web|url=https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/32/view/4582|title=西条陣屋町の形成と発展/愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)|work=データベース『えひめの記憶』|publisher=愛媛県生涯学習センター|accessdate=2021-9-15}}</ref>
<ref name="ehime_4585">{{cite web|url=https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/32/view/4585|title=西条市の商店街/愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)|work=データベース『えひめの記憶』|publisher=愛媛県生涯学習センター|accessdate=2021-9-15}}</ref>
<ref name="ehime_4589">{{cite web|url=https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/32/view/4589|title=西条港の発展/愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)|work=データベース『えひめの記憶』|publisher=愛媛県生涯学習センター|accessdate=2021-9-15}}</ref>
<ref name="ehime_7309">{{cite web|url=https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/54/view/7307|title=諸宗の動向/愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)|work=データベース『えひめの記憶』|publisher=愛媛県生涯学習センター|accessdate=2021-9-15}}</ref>
<ref name="ehime_7519">{{cite web|url=https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7519|title=ひ/愛媛県史 人物(平成元年2月28日発行)|work=データベース『えひめの記憶』|publisher=愛媛県生涯学習センター|accessdate=2021-9-15}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*『[[寛政重修諸家譜]]』巻第六百三