「豊田正作」の版間の差分

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(「二宮尊徳」守屋志郎著248~250頁要約)
 
== 即如院来報徳全居士について ==
 
 安政3年(1856)11月4日の夜、小田原城下の鍋弦小路(なべつるこうじ)(小田原駅新幹線口近く)に住む藩士山崎金五右衛門のところで、しめやかに法要が営まれた。この日は10月20日に逝去した二宮金次郎尊徳の、二七日(ふたなぬか)にあたる。
 ありありと道の光るや冬の月 
 「誠明院功誉報徳中正居士」という正式の法名はまもなく知れ、三乗寺は7月7日の回向をそれで行った。
 
== 年表 ==
 
文政10年(37歳)12月1日桜町に代官として赴任。二宮尊徳の仕法を妨害する。
文政12年(39歳)小田原に召還され、代官の職を免じられる。
天保元年(40歳)金次郎から桜町でとれた作物、大豆、小豆、ゴマが届く。
天保2年(41歳)鵜沢作右衛門らに二宮尊徳と再び働きたい旨を懇願し、、報徳元恕金の
世話人に指名される。
天保6年(45歳)念願かない桜町に赴任し、尊徳と再び働く。なお、この頃尊徳を先生と
呼び、今後随身する。
天保11年(48歳)6月8日二宮尊徳とともに韮山代官江川太郎左衛門に招かれ、韮山に
て江川に対し仕法について語る。
天保14年(51歳) 江戸神明社内車屋で小田原藩郡奉行の松下良左衛門と夜八時まで仕法
について語る。
安政3年(65 歳)金次郎がなくなり、小田原で法要を行う
安政4年(66歲)永眠
 
 
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