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{{出典の明記|date=2011年1月}}
[[File:Ming Yejong.jpg|thumb|朱祐杬]]
'''朱 祐杬'''(しゅ ゆうげん、[[1476年]][[7月22日]]([[成化]]12年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]])- [[1519年]][[7月13日]]([[正徳 (明)|正徳]]14年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]))は、[[明]]の[[皇族]]。孝宗[[弘治帝]]の異母弟で、世宗[[嘉靖帝]]の実父。'''睿宗'''の[[廟号]]、献皇帝の[[諡号]]を贈られた。
 
== 生涯 ==
憲宗[[成化帝]]の四男として、邵宸妃([[孝恵太后]])を母として生まれる。孝宗弘治帝の異母弟で、武宗[[正徳帝]]の叔父である。[[1487年]](成化23年)に興王に封じられた。[[1494年]]([[弘治 (明)|弘治]]7年)に正式に封地の[[安陸府|安陸州]][[鍾祥県]]に赴く。1519年(正徳14年)に逝去し、正徳帝からは「献王」の諡号を贈られた。
 
[[1521年]](正徳16年)、正徳帝が嗣子のないまま[[崩御]]したため、[[内閣大学士]]の[[楊廷和]]は「皇明祖訓」に拠って皇位継承者を探した。まず弘治帝については、2人の子は夭逝、さらに遡って成化帝については、長・次は夭逝、三が弘治帝、四の興王朱祐杬も既に逝去していたが2人の子があり、長の朱厚熙は夭逝、次子である男の朱厚熜が嗣子に立てられており、正徳帝の従弟であったので、新帝として迎立された。
 
朱厚熜は帝位に就いた後、実父に対し尊号を追贈したいと思うようになり、これが3年半にも及ぶ「[[大礼の議]]」と呼ばれる論争の発端となった。朝臣の反対をも顧みず、嘉靖帝は実父に対し興献帝と追尊した。また生母の氏にも章聖皇太后と尊し、弘治帝を「皇伯考」と改称した。1538年9月、朱祐杬に「睿宗」の廟号が追尊された。もとの興献帝の墳墓は明の[[明顕陵|顕陵]]へと改葬された。
 
== 宗室 ==
*正室:慈孝献皇后氏 - 斅の娘
*側室:温静淑妃王氏
*男子:朱厚熙(夭折)、朱厚熜([[嘉靖帝]])