「伊予八藩」の版間の差分

[[関ヶ原の戦い]]の直前、[[伊予国]]を治めていたのは、[[小川祐忠]](国分7万石)<ref name="ehime_8025"/><ref name="ehime_8036"/>、[[来島康親]](野間風早1万4000石)<ref name="ehime_8025"/><ref name="ehime_8036"/>、[[安国寺恵瓊]](和気郡など国内に6万石)<ref name="ehime_8025"/><ref name="ehime_8036"/>、[[池田秀氏|池田高祐]](大洲2万石)<ref name="ehime_8025"/><ref name="ehime_8036"/>、[[加藤嘉明]](松前10万石)<ref name="ehime_8025"/><ref name="ehime_8036"/>、[[藤堂高虎]](板島8万石)<ref name="ehime_8036"/>であった。
 
かれらのうち、関ヶ原の戦いで東軍についたのは加藤嘉明と藤堂高虎のみであり、両者によって伊予国は二分され<ref name="ehime_8036"/>、それぞれ20万石の大名となった。加藤嘉明は[[松山城]]を築き([[伊予松山藩]])、藤堂高虎は[[今治城]]を築いた([[今治藩]])<ref name="ehime_8036"/>。南予が藤堂領、中予が加藤領となり、東予は両者の領地が混在した<ref name="ehime_8036"/>
 
=== 南予旧藤堂家領 ===
藤堂高虎は慶長13年(1608年)に伊勢安濃津([[津藩]])に転封されたが、今治城付近の2万石は藤堂家領として残り、養子の[[藤堂高吉]]が預かった。藤堂旧領のうち大洲城には[[脇坂安治]]が5万3000石で([[大洲藩]])、[[宇和島城]]には[[富田信高]]([[宇和島藩]])が12万石で入った。
 
宇和島の富田家は慶長18年(1613年)に改易され{{efn|伊達家が入るまでは旧領主藤堂高虎の預かり地とされた。}}、翌慶長19年([[1614年]])に[[伊達秀宗]]が10万石で入った('''[[宇和島藩]]''')。その後秀宗は五男の[[伊達宗純]]が3万石を分知し、'''[[伊予吉田藩]]'''を立藩した。
 
大洲脇坂家は元和3年(1617年)、安治の子・[[脇坂安元]]の時に転出し、代わって[[加藤貞泰]]が6万石で入封した('''[[大洲藩]]''')。のちに[[加藤直泰]]が1万石を分知して'''[[新谷藩]]'''を立藩した。
 
今治の藤堂家領2万石は、寛永12年(1635年)に伊賀国名張に替地が与えられ、[[松平定房]]が3万石で入封した('''[[今治藩]]''')なお、定行の松山入封と同時である
 
=== 中予・東予旧加藤家領 ===
加藤嘉明は寛永4年(1627年)に会津に転封され、代わって[[蒲生忠知]]が24万石で入った。蒲生氏は寛永11年(1634年)に無嗣断絶となり、松山には[[松平定行]]が15万石で入り('''[[伊予松山藩]]''')、西条には[[一柳直盛]]が6万3000石で入ることとなった。
 
一柳直盛は入封の途上大坂で病没し、遺領は3人の子[[一柳直重]]([[西条藩]]3万石)・[[一柳直家]]([[川之江藩]]2万8000石{{efn|これ以前に播磨国小野に5000石の領地を得ていた。}})・[[一柳直頼]]('''[[小松藩]]'''1万石)で分割された。寛永19年(1642年)、川之江藩一柳家は末期養子を咎められ伊予国内の領地を収公され([[播磨国]][[小野藩]]1万石として存続)、川之江周辺は幕府領となった。寛文5年(1665年)に西条藩の[[一柳直興]]は改易処分を受けた。その後、寛文10年(1670年)には紀州徳川家連枝の[[松平頼純]](徳川頼宣の三男)が3万石で入封した('''[[西条藩]]''')
 
== 伊予八県 ==