「松平忠吉」の版間の差分

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[[天正]]16年([[1588年]])から天正18年([[1590年]])正月18日、徳川家康が出した消息には忠吉から[[小袖]]を送られた感激を表す一方、怠りなく学問に励むように諭している。短いやりとりのなかに父子の情愛が表れているもので、当代の子育ての一端を語ったものとして意義深いものである<ref name="miyamoto">宮本義己「家康が与えた子供たちへの手紙」『歴史読本』38巻19号、1993年。</ref>。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では会津征伐ために関東を北上後、家康に先んじて東海道に進んだことが秀忠書状で確認でき<ref>[https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=TAM000556 徳川秀忠書状松平忠吉宛 (慶長五年)八月二日]Image Archives DNPアートコミュニケーションズ</ref>、また当初は駿府城の城番だったが直政の進言により上洛したとある<ref>[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000002/2662/honbun_2_8_3.pdf 新修名古屋市史「本文編」第2巻 第八章天下人の直轄地 第三節天下分けめの戦い]</ref>。本戦では舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って[[福島正則]]と先陣を争い、手傷を負うも[[島津豊久]]を討ち取るなどの功を挙げる。戦後、功績比類なしとして尾張および[[美濃国|美濃]]に清洲52万石を与えられる。
 
戦後、11月18日に兄秀忠と共に参内して従四位下・侍従に任じられる。また論功行賞として尾張国および[美濃国に52万石を与えられ、清州城に入る。
 
慶長9年([[1604年]])には、[[下間仲孝]]に[[能楽]]の秘伝を学んでいる。しかし病に侵され、同年5月に[[城崎温泉|但馬]]へ湯治に向かう。慶長10年([[1605年]])4月には従三位左近衛中将にも任官するも、10月には腫物を患い、12月には危篤状態に陥るが投薬により蘇生する。