「西条藩」の版間の差分

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[[画像:Saijo entry.jpg|thumb|260px|旧西条陣屋大手門(現在は[[愛媛県立西条高等学校|県立西条高等学校]]正門)。[[寛政]]年間(1789年 - 1801年)の建設と推定されている<ref>{{cite web|url=https://www.wakayamashimpo.co.jp/2018/09/20180902_81272.html|title=西条藩を知る(3)「西条陣屋」大手門の歴史|publisher=わかやま新報|date=2018-09-02|accessdate=2021-9-15}}</ref>。]]
'''西条藩'''(さいじょうはん)は、[[江戸時代]]に[[伊予国]]に存在した[[藩]]。藩庁は伊予国[[新居郡]]西条(現在の[[愛媛県]][[西条市]])の[[西条陣屋]]。
 
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== 藩史 ==
おもに郷土史の分野で、一柳氏の西条藩を「第一次西条藩」、松平氏の西条藩を「第二次西条藩」と呼ぶことがある。
=== 一柳家時代 ===
[[寛永]]13年(1636年)、[[伊勢国|伊勢]][[神戸藩|神戸]]5万石の領主であった[[一柳直盛]]が、1万8000石の加増を受け、計6万8000石で<ref>{{cite web|url=http://kotobank.jp/word/西条藩|title=西条藩|work=藩名・旧国名がわかる事典([[コトバンク]]所収)|accessdate=2014-04-14}}</ref>西条に転封となる(このうち5000石を次男直家に分与しているため、6万3000石と記されることもある<ref>{{cite web|url=http://kotobank.jp/word/一柳氏|title=一柳氏|work=世界大百科事典 第2版([[コトバンク]]所収)|accessdate=2014-04-14}}</ref>)。これにより伊予国[[新居郡]]・[[宇摩郡]]・[[周敷郡]]および[[播磨国]][[加東郡]]にまたがる所領を持つ西条藩が成立するが、直盛は同年、入封の途上[[大坂]]において没した。直盛の遺領は3人の息子によって分割され、[[嗣子]][[一柳直重|直重]]が3万石を相続して西条藩主となり、次男[[一柳直家|直家]]が2万8000石(伊予[[川之江藩]]→播磨[[小野藩]])、三男[[一柳直頼|直頼]]が1万石(伊予[[小松藩]])の大名となった。
 
実質的に西条藩3万石を成立させたのは2代直重と言える<ref name="ehime_7519"/>。直重は、[[西条陣屋]]およびその[[陣屋町]]の原型を築いた<ref name="ehime_4582"/>{{sfn|愛媛県埋蔵文化財センター|2014|p=77}}。直重の子の[[一柳直興|直興]]は、弟の[[一柳直照|直照]]に5000石を分与し、西条藩は2万5000石となる。しかし[[寛文]]5年(1665年)、直興は職務怠慢や失政などを理由として[[改易]]処分を受けた。西条一時こののち[[徳島藩]]・[[松山藩]]の預かり地を経て、[[天領|公儀御料]](代官支配地)となった{{sfn|愛媛県埋蔵文化財センター|2014|p=77}}
 
=== 松平家時代 ===
5年の空白を経て、[[寛文]]10年(1670([[1670]][[紀伊国州藩]]紀州藩初代藩主[[徳川頼宣]]の三男[[松平頼純]]が3万石で入封し、再び西条藩が立てられた{{sfn|愛媛県埋蔵文化財センター|2014|p=77}}。この藩は紀州藩の支藩<ref>{{efn|支藩制度は、藩主を目指しての後継者争い(お家騒動)を避けるために行われた。軍役は本藩に組み込まれ、藩財政も本藩の支援を受}}と位置付た。地理的条件にもかかわず西条は特に本藩との結びつきが強く、藩士や家族が江戸と国許を行き来する際には和歌山を経由するのが常であった。また藩主だけなく家臣間の移動もあり、例えば[[坂本龍馬]]のいろは丸事件で有名な三浦休太郎は西条藩士から紀州藩士となった者である</ref>として3万石で入封した。[[紀州徳川家]](紀州藩主家)が絶えた場合に備えた。第2代[[徳川宗直|頼致]]は後述の通り、紀州藩主[[徳川吉宗]]が[[徳川将軍家|将軍]]なったため[[紀州徳川家]]・紀州藩主を継いだ。[[松平氏|松平家]]の関係参勤交代を行わない[[定府]]の[[大名]]だ緊密であった。
 
元禄7年(1694年)に行われた[[高田馬場の決闘]]、西条藩士の[[菅野六郎左衛門]]と[[村上庄左衛門]]が[[高田馬場の行った決闘]]を行い事件であり、[[堀部武庸]]の助太刀で評判になった。紀州藩第5代藩主[[徳川吉宗]]が[[徳川将軍家|将軍]]となった際には西条藩第2代藩主[[徳川宗直|頼致]]が紀州藩を継いで徳川宗直を名乗っており、弟の頼安(のち[[松平頼渡]])が西条藩を相続している
 
第4代藩主松平頼邑は藩財政立て直しのために倹約令を出したが、病弱のため藩政改革が困難であるとして22歳で隠居し、紀州徳川家から[[徳川治貞|松平頼淳]](頼致=宗直の三男)が第5代藩主に迎えられた{{sfn|愛媛県埋蔵文化財センター|2014|p=77}}。この頼淳も紀州藩を継いで徳川治貞を名乗っている。頼淳の跡は、紀州藩主徳川宗将の子・[[松平頼謙]]が継いだ。
藩主松平家は徳川一門の[[親藩]]でありながら、[[明治維新]]の際にはいち早く新政府に恭順の姿勢を示し、官軍として[[戊辰戦争]]に参戦した。[[明治]]2年(1869年)の[[版籍奉還]]と同時に最後の藩主[[松平頼英]]は[[藩知事]]となり、[[華族]]に列している。
 
第8代藩主[[松平頼啓]]は、西条に[[藩校]]「[[択善堂]]」を開いた。第9代松平頼学は、頼渡以来約100年ぶりという西条入国を行うとともに、天保7年(1832年)に領内の地誌『[[西条誌]]』の編纂を命じた(完成は天保13年)。
 
幕末期の藩主は、第9代[[松平頼英]]である。松平家は徳川一門の[[親藩]]でありながら、[[明治維新]]の際にはいち早く新政府に恭順の姿勢を示し、官軍として[[戊辰戦争]]に参戦した。[[明治]]2年(1869年)の[[版籍奉還]]と同時に最後の藩主[[松平頼英]]は[[藩知事]]となり、[[華族]]に列している。
 
明治4年(1871年)[[廃藩置県]]により西条県となった。のち、松山県・石鉄県を経て愛媛県に編入された。
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** [[周敷郡|周布郡]]のうち - 3村
 
== 松平家時代の藩政 ==
松平氏の西条藩は紀州藩の支藩であり、他の多くの藩とは異なる特色があった。軍役は本藩に組み込まれ、藩財政も本藩の支援を受けた。地理的条件にもかかわらず西条は特に本藩との結びつきが強く、藩士や家族が江戸と国許を行き来する際には和歌山を経由するのが常であった。また藩主だけでなく家臣間の移動も密であった{{efn|例えば[[坂本龍馬]]のいろは丸事件で有名な三浦休太郎は西条藩士から紀州藩士となった者である。}}。
 
松平家は[[定府]]大名であり、藩主が領国に入る機会は少なかった{{sfn|愛媛県埋蔵文化財センター|2014|p=77}}。初代藩主頼純の西条入りは、入封した[[寛文]]10年([[1670年]])をはじめとして、約40年の治世で5回である{{sfn|愛媛県埋蔵文化財センター|2014|p=77}}。しかし、西条松平氏10代200年の歴史で合計9回であり、正徳4年(1714年)に松平頼致、享保14年(1729年)に松平頼安、天保6年(1835年)に松平頼学、文久3年(1863年)に松平頼久が入国したに過ぎない{{sfn|愛媛県埋蔵文化財センター|2014|p=78}}。
 
== ゆかりの人物 ==
{{see also|Category:西条藩の人物}}
* [[松平頼雄 (西条藩嫡子)]]
* [[山井崑崙]] - [[儒学者]]、江戸詰藩士として召し抱えられる。
* [[都筑馨六]] - 藩士、のち[[法学博士]]、[[男爵]]
* [[高橋筅次郎]] - 藩士、[[剣術]]家
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="ehime_4582">{{cite web|url=https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/32/view/4582|title=西条陣屋町の形成と発展/愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)|work=データベース『えひめの記憶』|publisher=愛媛県生涯学習センター|accessdate=2021-9-15}}</ref>
<ref name="ehime_7519">{{cite web|url=https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7519|title=ひ/愛媛県史 人物(平成元年2月28日発行)|work=データベース『えひめの記憶』|publisher=愛媛県生涯学習センター|accessdate=2021-9-15}}</ref>
}}
 
== 参考文献 ==
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*『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 [[文春新書]] [[2003年]]
*『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 [[八幡和郎]]/著 [[光文社新書]] [[2004年]]
*{{citation|和書|title=西条藩陣屋跡 西条高校体育館改築工事に伴う埋蔵文化財調査報告書|author=愛媛県埋蔵文化財センター|publisher=愛媛県埋蔵文化財センター|year=2014|url=http://ehime-maibun.or.jp/kankobutsu_hoka/hokokusyo/185/hokokusyo_185.pdf}}
 
== 関連項目 ==
* [[松平頼雄 (西条伊予八嫡子)]]
* [[田宮神剣流]](田宮流)
* [[山井崑崙]] - [[儒学者]]、江戸詰藩士として召し抱えられる。
* [[都筑馨六]] - 藩士、のち[[法学博士]]、[[男爵]]
* [[高橋筅次郎]] - 藩士、[[剣術]]家
 
== 外部リンク ==
*[http://ehimenohiro.liblo.jp/ 西条藩立写真館]