「渡部昇一」の版間の差分

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== 略歴 ==
{{一次資料|date=2020-05|section=1}}
[[山形県]][[鶴岡市]]出身。山形県立鶴岡中学校(旧制)在学中に学制改革が実施され、山形県立鶴岡第一高等学校(現:[[山形県立鶴岡南高等学校]])を卒業(1949年:昭和24年)。なお同校は新制高等学校であるが、渡部昇一は「私にとっての友達をつくる上で一番よかった時代は、やはり旧制高校に通っていたときだと思う」「旧制高校には各地域から選ばれた優秀な人間が集まってきていたので、周りを見渡せば『すごい』と思える人間ばかりだった」と回顧している<ref>『日本人の道徳心』「道徳09」(ベスト新書、2017年)</ref>。
 
同年[[上智大学]][[文学部]][[英文学科]]に入学。1955年上智大学[[大学院]]西洋文化研究科[[修士課程]]修了。同科助手。同年ドイツの[[ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学]](通称ミュンスター大学)に留学、1958年同大学よりDr.Phil([[哲学博士]]号)を受ける。1958年[[イギリス]]・[[オックスフォード大学]]ジーザス・カレッジ寄託研究生。
 
1960年上智大学英文科[[講師]]、[[助教授]]を経て[[教授]]。助教授の頃、フルブライト・ヘイズ法(旧[[フルブライト・プログラム]]。法制化された)によるアジアからの訪問教授プラン(VAPP)によって渡米、4つの州の6つの大学で半学期ずつ講義を行う<ref>[[WiLL (雑誌)|WiLL]]2015年11月号284p本人談</ref>。1994年ミュンスター大学名誉哲学博士(Dr.Phil. h.c.)、2001年退職、上智大学より[[名誉教授]]の称号を受ける。
 
2017年4月17日、[[心不全]]により東京都杉並区の病院で死去、享年86<ref name="nikkei20170418">{{Cite news|title=渡部昇一氏が死去 英語学者、保守派の評論家|newspaper=日本経済新聞|date=2017年4月18日1時8分|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG17HAH_X10C17A4CZ8000/|accessdate=2017-04-18}}</ref>。
 
自著<ref name="bannen">『95歳へ!―幸福な晩年を築く33の技術』飛鳥新社、2007年。{{要ページ番号|date=2012-10-04}}</ref> によると極貧の状態で大学を卒業し、奇跡的にヨーロッパの大学に留学し、学位を取ることができたと記述されている<ref>但し別の著書では、生家は裕福な商人で自分で服を着替えたことがなく母親や祖母、姉にしてもらっていたという。また、新婚時代に妻に着替えを頼み驚かせたという。(渡部監修『皇室入門』){{要ページ番号|date=2012-10-04}}</ref>。
 
[[古書]]の[[蒐集家]]であり、専門の英語学関係の洋書だけで約一万点を所有。その蔵書目録はA4判600ページあり<ref name="bannen" />、日本ビブリオフィル会長を務めた。
 
他に主な役職としては、インド親善協会理事長、[[日本財団]]理事、グレイトブリテン・ササカワ財団(在イギリス[[日本財団]])理事、野間教育財団理事、[[イオングループ]]環境財団評議員、[[エンゼル財団]]理事、「[[日本教育再生機構]]」顧問、「道徳教育をすすめる有識者の会」代表世話人<ref>[https://doutoku.jimdo.com/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2%E3%82%92%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E3%82%8B%E6%9C%89%E8%AD%98%E8%80%85%E3%81%AE%E4%BC%9A-%E3%81%A8%E3%81%AF/ 道徳教育をすすめる有識者の会]</ref>。
 
2017年4月17日、[[心不全]]により東京都杉並区の病院で死去、享年86<ref name="nikkei20170418">{{Cite news|title=渡部昇一氏が死去 英語学者、保守派の評論家|newspaper=日本経済新聞|date=2017年4月18日1時8分|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG17HAH_X10C17A4CZ8000/|accessdate=2017-04-18}}</ref>。
 
== 研究・栄典 ==
*1975年(昭和50年)4月から半年間、月刊『言語』誌上で上と神が同根か否かを廻って、[[大野晋]]と学問的な論争が続いた<ref>p.186 『国語のイデオロギー』渡部昇一 中公叢書 ,p.336 『古語俗解』文藝春秋 1983年</ref>。大野によると、上のミは[[上代特殊仮名遣]]の甲類で、神のミは乙類であるから、両者に関係が無い<ref>p.184-185 「……関係ない語であると判断される(大野)」『国語のイデオロギー』</ref>。「神は上にあらず」<ref>p,9『岩波古語辞典』,p.103-108, 191-197『日本語をさかのぼる』大野晋 岩波新書</ref> は白石、宣長以来の定説を覆す主張であった<ref>p.193 「大野説のいわゆる宣長以来の学説をひっくり返したと称する新しい語源説……」『国語のイデオロギー』,p.336 「これは新井白石・本居宣長・久米邦武などの大学者も気づかなかった大発見ということで」『古語俗解』</ref>。同一語源の語が意味の分化を生じたなら、それに従って語形の一部を変えるのが自然ではないか、大野説では日(甲類)と火(乙類)の同一語源を説明できない、口腔図の距離と音韻転化に関係が無い、 甲類が先で乙類が後の時系列か、等とする主張を渡部は、主に日本語以外の例で述べた<ref>p.187-196 『国語のイデオロギー』</ref>。論争の終盤で他の学者が渡部支持だった<ref>p.337 『古語俗解』文藝春秋 1983年</ref>、大野の反論は無かった<ref>p.186 『国語のイデオロギー』</ref>。これを以て、「上にいますから神」という白石・宣長以来の説は少しも妥当性を失っていない<ref>p.196『国語のイデオロギー』</ref>、と渡部は述べている。
* [[南京事件 (代表的なトピック)|南京事件]]についての主張は、現代史家の[[秦郁彦]]を批判した。秦は南京事件についての中公新書のなかで、曽根一夫『私記南京虐殺』(正続)を極めて高く評価し、至るところで利用して「類書にない特色を持つ」、「曽根氏の明快なる指摘に頼って」と主張した<ref>p.69,p.139,p.202,p.217等々 秦郁彦『南京事件』</ref>。しかしこの曽根という人は南京に突入した部隊にはおらず、戦場の噂話(ホラの要素が多い)などを材料にして書き上げたものであった<ref>著書『知の湧水』ワック、2017年、234頁より引用</ref><ref>p. 254『本当はこうだった南京事件』板倉由明 日本図書刊行会</ref>。曽根の正体が暴かれた後も秦は「削除する必要は認めない」と居直り、改訂版を出した折も1箇所も修正していない<ref>『月曜評論』平成9年10月5日 板倉由明</ref>
* 「大幅借用」問題は1984年に出版された[[田中正明]]『南京虐殺の虚構』で渡部の「大げさな推薦文<ref>{{efn|渡部推薦文「本書を読んで、今後も南京大虐殺を言い続ける人がいたら、それは単なる反日のアジをやっている左翼と烙印を押してよいだろう」<ref>p.184『昭和史の謎を追う』文春文庫</ref> }}にカチンと来」<ref>p.77『新潮45』1997年10月号</ref> た秦が、1年後に田中の「[[松井石根]]大将の陣中日記」改竄が明らかになったのを機に、田中・渡部らの「まぼろし派」を批判した<ref>p.188,189『昭和史の謎を追う』</ref>{{要出典範囲|date=2018年1月30日 (火) 11:04 (UTC)|ことに始まる}}。自身「中間派」の秦は渡部を、「写真ぐるみゲルリッツを大幅借用したくらいだから、盗用や改竄には理解があるのかも知れない<ref>p.189『昭和史の謎を追う』文春文庫</ref>」と、1年前の推薦文を事後の改竄事件から問題視した。渡部の『ドイツ参謀本部』では、初めに中央公論の編集者が、渡部の原稿にゲルリッツの参謀本部の本からの写真を入れた。どんな写真を入れるかは渡部の知る所ではなかったが、秦はその写真を見て、内容も盗用したのだろうと見做して批判した。その後、『ドイツ参謀本部』は、中公新書版に入った写真を換えて出すことをクレスト社社長の打田良助が勧め同社から出版された。その後、祥伝社の新書に移り、さらにワック社からハード・カバーで出版された。四社を転々としたが、盗用本などではないため、本文は一行も変わらず、変わったのは写真と体裁だけである<ref>著書『知の湧水』ワック、2017年、235頁より引用</ref>。『ドイツ参謀本部』は1974年の出版だが、当時「ゲルリッツの本を私自身が翻訳刊行しようと考え<ref>p.78『新潮45』1997年10月号</ref>」ていたと秦は語る。
* 1980年『[[週刊文春]]』誌上{{要出典|date=2017年8月1日 (火) 01:39 (UTC)}}で、小説家の[[大西巨人]]に対し、息子2人が[[血友病]]であり高額な医療費助成がなされていることから、「第一子が遺伝病であれば第二子を控えるのが社会に対する神聖な義務ではないか」などと主張した。
* [[第一次教科書問題]]できっかけとなった報道が誤報であったとする立場から、[[朝日新聞]]や[[毎日新聞]]と激しく対立<ref>『万犬虚に吠える』{{要ページ番号|date=2012-10-04}}</ref>。
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2017年8月1日 (火) 01:39 (UTC)}}
* 幼少時代は、貧しいながらも父が本に関しては制限しなかったために、[[少年倶楽部]]を好んで読んでいた<ref>渡部玄一『ワタナベ家のちょっと過剰な人々』131p</ref>。
* 幼少の頃から母親と2人の姉に過保護に育てられ、洋服のボタンも一人でははめることができなかった<ref name="watanabe2006"/>
* 自著<ref name="bannen">『95歳へ!―幸福な晩年を築く33の技術』飛鳥新社、2007年。{{要ページ番号|date=2012-10-04}}</ref> によると極貧の状態で大学を卒業し、奇跡的にヨーロッパの大学に留学し、学位を取ることができたと記述されている<ref>{{efn|但し別の著書では、生家は裕福な商人で自分で服を着替えたことがなく母親や祖母、姉にしてもらっていたという。また、新婚時代に妻に着替えを頼み驚かせたという。(<ref name="watanabe2006">渡部監修『皇室入門』{{要ページ番号|date=2012-10-04}}</ref>。}}
* 留学してみると、博士論文はドイツ語かラテン語で書くことになっている。えらいことになったと思ったが悩んでいる時ではない。『独作文教程』を毎日、半日練習しドイツ語会話を丸暗記した。それを2,3カ月と半年で越えた。1年で学術的内容のレポートも褒められ、留学してから2年で博士論文を書き上げた。この速さから、教授に「君はまことに天才である」と大層な誉め言葉を戴いた。これは文法の威力と教授の誤解にあると渡部は語る。天才神話はひろまり、さまざまな恩恵に浴した<ref>p.139-148『英文法をなでる』渡部昇一 PHP新書</ref>。
*大学1年の夏休みに帰省すると、父親が失職していた。来年の授業料の見通しが立たない。学科で首席になり、授業料を免除してもらう(特待生)以外に道は無い。必死の覚悟で勉強した。おかげで授業料をその後は払うことなく卒業できた<ref>p.280,285 『渡部昇一 青春の読書』ワック 2015年</ref>。
* [[自由民主党 (日本)|自民党]]の衆議院議員[[稲田朋美]]の全国後援会『ともみ組』会長を務める<ref>[http://www.inada-tomomi.com/tomomigumi/tomomigumi.html 稲田朋美全国後援会『ともみ組』] 稲田朋美オフィシャル・ホームページ</ref>。
* 映画「[[南京の真実]]」の賛同者{{要出典|date=2017年8月1日 (火) 01:39 (UTC)}}。
* 若い頃から音楽にはほとんど興味がなかったが、夫人が[[桐朋学園]]音楽科の1期生で[[ピアニスト]]であることもあり、3人の子供が全員音楽家となっている<ref group="注">長女がピアニスト、長男が[[チェリスト]]、次男が[[ヴァイオリニスト]]である。</ref><ref>[http://www.kairyusha.co.jp/ISBN/ISBN978-4-7593-1296-6.html ワタナベ家のちょっと過剰な人びと] 海竜社</ref><ref>{{YouTube|aV3pyT7pCOY|【新春特別対談】渡部昇一と大いに語る<nowiki>[桜H27/1/1]</nowiki>}}</ref>。
* 1985年6月のカウサ(CAUSA。アメリカ社会統一協会連合)第三回日本会議に出席、さらに、1985年8月5日の東京[[国際勝共連合|勝共]]講師団結成集会では基調講演を行っている<ref>青木慧『パソコン追跡勝共連合』(汐文社、1985年) P.393</ref>。また、自宅に無料配布される[[世界日報 (日本)]]は発行母体が統一教会という問題の有る団体だが、文鮮明絡みを除けば<ref>p.135 『朝日新聞と私の40年戦争』渡部昇一</ref>「この四分の一世紀の間、日本のクオリティ・ペーパーであった」と2001年1月の世界日報25周年記念メッセージ<ref>[https://web.archive.org/web/20140312224749/http://vpoint.jp/wtview/service/office/message.html#watabe 「日本のクオリティ・ペーパーであれ/渡部 昇一氏」創刊25周年時の激励メッセージ](2014年3月12日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref> において6行で、他の4人とともに述べている。また一時「世界日報をおすすめします」と題する世界日報の広告にも登場し、同様の内容のコメントが他の3氏の物と共に掲載されていた<ref>例えば『[[諸君!]]』1983年11月号87ページ</ref>。
* [[アパグループ]]が主催した第1回『「[[「真の近現代史観」懸賞論文]]』懸賞論文の審査委員長を務めた。2008年10月31日に最優秀[[元谷外志雄|藤誠志]]賞に航空自衛隊幕僚長・[[田母神俊雄]]の論文「日本は侵略国家であったのか」を選考<ref>[https://web.archive.org/web/20081103074242/http://www.apa.co.jp/book_report/index.html 第1回『「真の近現代史観」懸賞論文受賞者発表](2008年11月3日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) アパグループ</ref> した。論文内容は「侵略国家ではなかった」とし、[[日中戦争]]の原因を[[蔣介石]]に巻き込まれた濡れ衣であると主張するなど、渡部の近現代史論に近いものであった。その後、この論文は田母神が「政府見解と異なる主張をしたうえ、上層部の許可を得ずに外部に論文を提出した」などとして[[防衛大臣]]の[[浜田靖一]]に即日更迭処分を受ける一因<ref>[https://archive.is/20081103064914/http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20081031NTE2INK0731102008.html 政府、田母神空幕長を更迭 「侵略はぬれぎぬ」主張巡り](2008年11月3日時点の[[archive.is|アーカイブ]]) 日本経済新聞 2008年10月31日</ref> となった。
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===