「日本の獣肉食の歴史」の版間の差分

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切れたアンカーリンクを修復: 2009-07-05 (ただし変更大につき誤推定の可能性あり 5≥4) #脚気論争→高木兼寛#兵食改革と脚気論争
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明治初年には抵抗も強かった。血抜きの技術が不完全で煮炊きすると臭かったため、庶民が単純に敬遠するということもあったらしい<!--p.91-->。『武士の娘』を書いた[[杉本鉞子]]は牛肉を庭で煮炊きをしたところ、祖母は[[仏壇]]に紙で目張りをして食事にも姿を見せなかったという<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000999448/ 肉食という近代 : 明治期日本における食肉軍事需要と肉食観の特徴(第二部)(魚住昌良・斯波義信両教授記念号)(都市と平和)]{{要ページ番号|date=2019年11月}}</ref>。一方、正当な理由のある反対としては[[1869年]](明治2年)、豊後[[岡藩]]の清原来助が[[公議所]]に農耕牛保護のために牛肉の売買禁止を訴えている<ref name=okada>[岡田:2000]</ref><!--p.66-->。天皇が食してしばらく後の[[1872年]](明治5年)[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]、御岳行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名が射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生し、後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の居場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」との動機が供述されている。[[1873年]](明治6年)の『[[東京日日新聞]]』には「豚肉は健康に良くないので食べないよう」との投書が掲載された。[[1877年]](明治10年)の『[[朝野新聞]]』には「洋食洋医を宮中より斥けよ」との記事が掲載された<!--p.23-->。[[1880年]](明治13年)の『[[郵便報知新聞]]』は、牛肉食で耕牛が減少したため、食糧生産が大幅に減少した、と報じている。
 
[[1884年]](明治17年)、[[海軍省]]医務局長の[[高木兼寛#兵食改革と脚気論争|高木兼寛]]は、当時大きな問題であった[[脚気]]の原因が「窒素と炭素の比例不良」([[タンパク質]]の不足)にあると考え、脚気対策として[[大日本帝国海軍|海軍]]の兵食を西洋式に改めることを上申した。しかし、兵員の多くが[[パン]]と肉を嫌って食べなかったため、海軍では[[1885年]](明治18年)から[[麦飯]]も支給されることとなった<ref>麦飯支給により、海軍の脚気患者は激減した。ただし海軍の航海食は、脚気を予防するには麦の割合が低く、副食も[[ビタミン]]不足を補えなかったこともあり、後年、脚気患者が増加し、12月に[[太平洋戦争]]が勃発した[[1941年]](昭和16年)には3,079人の患者が出た)。ちなみに、[[1890年]](明治23年)と[[1924年]](大正13年)について海軍航海食の一日量を比較すると、貯蔵獣肉が減少(40匁→30匁)し、また[[乾パン]]が半減(100匁→45匁)したのに対して白米が倍増(50匁(ただし週6日の給与)→90匁)した。山下(2008)。</ref>([[日本の脚気史#海軍の兵食改革]])。また、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]においても日常で食される兵食や[[レーション|野戦糧食]]に肉食・洋食が多く取り入れられ、[[日清戦争]]当時の「戦時陸軍給与規則」では1日の基準の肉・魚は150gであった([[日本の脚気史#「勅令」による戦時兵食の指示]])<ref>{{Cite book|和書
|author = 山下政三
|year = 2008
443,516

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