「日本の獣肉食の歴史」の版間の差分

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『日本書紀』によると[[675年]]、[[天武天皇]]は仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じた。また、農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止された(ただし、この「期間を限定」する記述は「漁業設備(ヒミサキリ等)の設置を禁じる」ことで文が完結して、次の文で肉食禁止について書かれていることから、「この肉食禁止は期間を限定した禁令ではない」とする捉え方もある。<ref>中澤克昭「肉食の社会史」(山川出版社)</ref>)。しかし、以前より一般的な習慣として食べられていた鹿と猪は獣肉であっても禁じられなかった<ref>[[s:日本書紀/卷第廿九|日本書紀卷第廿九]] 天武天皇四年四月庚寅(675年5月16日)。詔諸國曰。自今以後。制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後。九月卅日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛馬犬猿鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。</ref><ref name=harare/>。引き続き猪豚の飼育も行われており、[[穂積親王]]が708年に詠んだ歌には「降る雪はあはにな降りそ[[桜井市|吉隠]]の猪養の岡の寒からまくに」とある(猪養は地名でもある)。また、[[718年]](養老2年)に亡くなった[[道首名]]は筑後守時代に国人に鶏や豚の飼育を奨励しており、『続日本紀』には「下及鶏肫。皆有章程。曲盡事宜」(〈道首名の規則は〉鶏や豚の飼育にも及んでおり、ことごとく詳細で適切であった)と記されている。『続日本紀』[[732年]](天平4年)7月6日には聖武天皇が「和買畿内百姓私畜猪四十頭。放於山野令遂性命(畿内の百姓から家畜の猪40頭を買って山に逃がした)」との記載もある。だが、罠や狩猟方法に関して禁令がたびたび出され、正月の宮中行事である御薬を供ずる儀でも、獣肉の代わりに鶏肉が供されるようになった。さらにこの頃から貴族の間で[[牛乳]]や乳製品の摂取が盛んになり、動物性タンパクが補われるようになった<ref name=wata/>。奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していた[[渡来系]]の官吏や貴族を牽制するためとする説もあり、家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものである可能性もある<ref>「日本人と食肉」、平成11年3月、日本食肉消費総合センター</ref><!--p.16-->。奈良時代には前時代から食されていた動物に加えて[[ムササビ]]も食されたが、臭気が強いためにこの他の時代ではあまり例がない。また、酢を使って鹿の内臓を[[膾]]にすることも始められた<ref name=wata />。一方で、庶民には仏教がまだまだ浸透せず、禁令の意味も理解されずに肉食は続けられた。
 
[[平安時代]]にも貴族の間での食肉の禁忌は続いた。[[10世紀]]前半成立の『[[延喜式]]』では3巻の「臨時祭」の中で、「穢悪」のひとつとして死や出産に並んで肉食が挙げられている<ref>{{cite book|title=歴史の中の米と肉 食物と天皇・差別|isbn=4-582-84147-3|author=原田信男|publisher=平凡社|year=1993}}</ref><ref>{{cite book|title=穢れと大祓 増補版|author=山本幸司|publisher=解放出版社|year=2009|isbn=978-4-7592-5253-8}}</ref><ref>{{cite journal|title= 平安時代における穢れ観念の変容--神祇祭祀からの分離|url= http://www.ajih.jp/backnumber/pdf/41_02_01.pdf|author= 尾留川 方孝|journal=日本思想史学|volume=41|year=2009}}</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1273518/66 延喜式. 第1] 日本古典全集刊行会 p.106 (国立国会図書館)</ref>。[[914年]](延喜14年)に出された漢学者[[三善清行]]の『[[意見十二箇条]]』には、悪僧が腥膻(肉と肝)を食うのを評して「形は沙門に似て、心は屠児の如し」とかかれており、食肉の禁忌があったこと、および一部ではそれを僧でさえ破っていたこと、獣肉を処理する屠児という職業がありそれが差別される存在であったことなどを示している。[[935年]](承平5年)に編纂された辞書『[[和名類聚抄]]』人倫部第六 漁猟類第二十一<ref>[http://www.littera.waseda.ac.jp/wamyou/doc/Level3/ab020402.html 早稲田大学図書館蔵『和名類聚抄』人倫部第六 漁猟類第二十一]</ref>では、屠児の和名を「えとり」とし、意味は「鷹雞用の餌を取る者」転じて「牛馬を屠って肉を売る者」という意味だと解説しており、獣肉を売る商売があったことが分かる<ref name=harare/>。また『和名類聚抄』には猪、ウサギ、豚などが食されたことも記載されており、これらは[[ハレとケ|ハレ]]の日の食膳に出された。平安時代には[[陰陽道]]が盛んになったこともあり、獣肉食の禁忌は強まり、代わって鳥や魚肉が食されるようになった。これが魚肉の値上がりの原因になり、[[延喜式]]に記載された米と鰹節との交換比率は、200年前の大宝令の時と比べて2 - 3倍に上がっている<ref name=wata/>。延喜式には獣肉の記載がほとんどないが、一方で鹿醢(しししおびしお)、兎醢など獣肉の醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉の塩漬けを発酵させた調味料に関する記載が現れる<ref name=harada/>。乳製品もさらに多く摂られるようになっている。平安末期になると[[孔子]]に食肉を供えるはずの行事[[釈奠]]でも代わりに餅や乾燥[[ナツメ|棗]]などが用いられるようになったり、正月の[[歯固]]の膳でも鹿の代わりに[[シギ科|鴫]]、猪の代わりにキジが出されるようになった。また、穢れを信じるあまりに馬肉は有毒とまで考えられ、『[[小右記]]』の[[1016年]](長和5年)の条には犯罪を犯した男に馬肉を食べさせた旨が記されている<ref name=harare/>。当時の医学書『[[医心方]]』にしし肉(獣肉)と魚肉の食い合わせが良くないと記されていたり、『[[今昔物語]]』には庶民がしし肉を買いに行く場面が出てきたりと、完全に食肉の習慣が無くなったわけではなかった<ref name=wata/>。平安時代の[[古語拾遺]]には古代のこととして「大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ」とあり、御歳神に対する神事として農民に牛肉を食わせたことが書かれている。ただし古語拾遺内の創作であるとする可能性も指摘されている<ref>平林章仁「神々と肉食の古代史」、2007年、吉川弘文館、ISBN 978-4-642-07977-8</ref><!--p.10-->
 
== 武士の時代 ==