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==聖職者による使用==
キエフ・ルーシのキリスト教化以降、キエフには[[府主教]]座が置かれた。キエフ府主教は、[[キエフ大公国の分裂]]が進み、教会の団結の必要に迫られた1160年代から、称号に「キエフおよび全ルーシの府主教[[:ru:Митрополит Киевский и всея Руси|(ru)]]」)を用い始めた<ref>[https://bigenc.ru/text/3041090 БРЭ. Том «Россия»]. М., 2005.</ref>{{refnest|group="注"|本項では、現[[モスクワ総主教]]の正式名称に関する日本語表記に従い
// CHRISTIAN TODAY 2016.2.18.</ref>、ロシア語接続詞「и」、ウクライナ語接続詞「і」に対して「および」の訳語を当てている。}}。
モンゴルのルーシ侵攻以降キエフが荒廃すると、1299年には、府主教マクシム[[:ru:Максим (митрополит Киевский)|(ru)]]が、「キエフおよび全ルーシの府主教」の称号のまま、キエフから[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]へとその拠点を移した<ref name="田中1995.p196">田中1995.p196</ref>。次いで1325年には、キエフおよび全ルーシの府主教ピョートル[[:ru:Пётр (митрополит Киевский)|(ru)]]が、諸公との権力闘争を優位に進める[[イヴァン1世|イヴァン・カリター]]の居する[[モスクワ]]に拠点を移した<ref name="田中1995.p196">田中1995.p196</ref>。一方、キエフを含むルーシ南部から西部にかけては[[リトアニア大公国]]の統治下に入っていたが、リトアニア統治下のキエフにおいても、1458年に府主教が置かれた<ref name="田中1995.p197">田中1995.p197</ref>。このどちらの府主教も、称号の中に全ルーシを用いていた{{refnest|group="注"|詳しくは[[:ru:Московская епархия]] 、[[:ru:Киевская митрополия (1458—1596)]]を参照されたし。}}。具体的には、モスクワの府主教は、1451年から「モスクワおよび全ルーシの府主教[[:ru:Митрополит Московский и всея Руси|(ru)]]」を称し、1589年に府主教から[[総主教]]となると<ref>Грамота Константинопольского собора об основании Московского патриархата // РГАДА. Ф. 52. Оп. 2. Ед. хр. 5.</ref>、「モスクワおよび全ルーシの総主教」を称した。その後、[[帝政ロシア]]期から初期[[ソ連]]にかけては、政府の宗教政策によって総主教の置かれない時期が続いたが、1943年に再設されると、現在に至るまで、ロシア語における[[ロシア正教会]]
一方、キエフの府主教は、1458年から「キエフ、ガーリチおよび全ルーシ(ウクライナ語:キイウ、[[ハールィチ]]および全ルーシ)の府主教」を称した。この称号は、1596年の[[ブレスト合同]]([[ウクライナ東方カトリック教会]]成立)まで用いられた。なお、1620年から1688年にかけて、再びキエフに府主教座が置かれるが、その際には、「キエフ、ガーリチおよび[[小ロシア]](Киевский, Галицкий и Малыя России)の府主教」の称号が用いられた{{refnest|group="注"|詳しくは[[:ru:Киевская митрополия (1620—1688)]]を参照されたし。}}。現在、[[ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)|モスクワ総主教庁系のウクライナ正教会]]、[[ウクライナ正教会 (2018年設立)|2018年に設立したウクライナ正教会]]は共に「キエフ(キイウ)および全ウクライナの府主教[[:uk:Митрополит Київський і всієї України|(uk)]](Митрополит Київський і всієї України)」の称号を用いている。
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