「エドワード8世の退位」の版間の差分

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[[File:KingBaldwin1926.jpg|thumb|right|カナダ首相 [[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]] (左) とイギリス首相 [[スタンリー・ボールドウィン]] (右)、 1926年]]
 
第2の選択肢は、ヨーロッパ大陸になら、エドワードの曽祖父にあたる[[アレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルク (1804-1885)|ヴュルテンベルク公アレクサンダー]]をはじめとする先例があったが、イギリスの憲政史上では類例がなかった。 [[自治領]]5ヵ国(オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、[[南アフリカ連邦|南アフリカ]]、[[アイルランド自由国]])の首相に尋ねた所、「第3の選択肢に代わる物はない」という意見が多数を占めた<ref>Bradford, p. 188.[[エイモン・デ・ヴァレラ]]を引用</ref>。[[カナダ首相]]の[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]]、[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]]の{{仮リンク|ジョゼフ・ライオンズ|en|Joseph Lyons}}、[[南アフリカの首相|南アフリカ首相]]の[[ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク]]は、第1と第2の選択肢に反対した。マッケンジー・キングはエドワードに対し「自分の心の中で正しいと信じる事」をすべきと助言し<ref name=MK555>{{citation|url=http://www.bac-lac.gc.ca/eng/discover/politics-government/prime-ministers/william-lyon-mackenzie-king/Pages/item.aspx?IdNumber=17479|publisher=[[Library and Archives Canada]]|title=The Diaries of William Lyon Mackenzie King|page=555|date=8 December 1936}}</ref>、カナダ政府はシンプソンへの感情よりも義務を優先するよう訴えた<ref name=Heard />。[[カナダの総督|カナダ総督]]の[[ジョン・バカン|トゥイーズミュア卿]]は、バッキンガム宮殿とボールドウィンに、カナダ人は国王に深い愛情を抱いているが、エドワードが離婚経験者と結婚したら、カナダの世論は憤慨するだろうと伝えた<ref>{{Citation| last=Hubbard| first=R. H.| title=Rideau Hall| publisher=McGill-Queen's University Press| year=1977| location=Montreal and London| page=[https://archive.org/details/rideauhallillust00hubb/page/187 187]| isbn=978-0-7735-0310-6| url=https://archive.org/details/rideauhallillust00hubb/page/187}}</ref>。[[ニュージーランドの首相|ニュージーランド首相]]の{{仮リンク|マイケル・ジョセフ・サヴィッジ|en|Michael Joseph Savage}}は第1の選択肢を否定し、第2の選択肢については「もし、これらの線に沿った何らかの現実的な解決策が実行可能である事がわかれば、なら......可能かも知れない」と考えるが、最終的には「本国政府の決定に導かれるだろう」と答えた<ref>Williams, p. 130.</ref>。アイルランド自由国の{{仮リンク|アイルランド自由国行政評議会議長|label=行政評議会議長|en|President of the Executive Council of the Irish Free State}}の[[エイモン・デ・ヴァレラ]]は、イギリス政府との応対の中で、アイルランド自由国は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の国家であり、離婚が認められていないと述べた。彼は、イギリス国民がウォリス・シンプソンを受け入れないのであれば、退位が唯一の解決策であると考えた<ref>Williams, pp. 130–131.</ref>。11月24日、ボールドウィンは、3人の主要な対抗勢力の政治家に相談した。[[女王陛下の野党 (イギリス)|第一野党]]の{{仮リンク|公式野党党首 (イギリス)|label=党首|en|Leader of the Opposition (United Kingdom)}}の[[クレメント・アトリー]]と[[自由党 (イギリス)|自由党]]党首の{{仮リンク|アーチボルド・シンクレア|en|Archibald Sinclair, 1st Viscount Thurso}}、そして[[ウィンストン・チャーチル]]である。シンクレアとアトリーは、第1・第2の選択肢は受け入れられないという意見で一致し、チャーチルは政府を助ける事を約束した<ref>Williams, p. 113.</ref>。
 
しかし、チャーチルは政府を助けなかった。7月には、国王の法律顧問である{{仮リンク|ウォルター・モンクトン|en|Walter Monckton}}に離婚に反対するよう助言していたが、無視された<ref>Williams, p. 173; Ziegler, p. 291.</ref>。 不倫が公になるとすぐに、チャーチルはボールドウィンと国王に対し、議会と国民の意見が反映されるまで決定を先延ばしにするよう圧力をかけ始めた<ref>Williams, pp. 173–176.</ref>。チャーチルは[[タイムズ]]紙の編集者である{{仮リンク|ジェフリー・ドーソン|en|Geoffrey Dawson}}に宛てた私信の中で、時が経てば国王のシンプソンに対する熱が冷めるかも知れないとして、引き延ばしは有益であると示唆していた<ref>Williams, p. 177.</ref>。 おそらく危機の早期解決を望んだボールドウィンは、この引き延ばし要求を拒否した。国王の支持者たちは、ボールドウィン、ジェフリー・ドーソン、[[カンタベリー大主教]]の{{仮リンク|コスモ・ゴードン・ラング|en|Cosmo Gordon Lang}}の間の陰謀の存在を主張していた<ref>Evans, W. (1968), ''Journey to Harley Street'', London: David Rendel, p. 219.</ref>。王室の侍医である{{仮リンク|バートランド・ドーソン (初代ペンのドーソン子爵)|label=バートランド・ドーソン|en|Bertrand Dawson, 1st Viscount Dawson of Penn}}は、心臓病を理由に首相を引退させる計画に関与していた可能性があったが、彼は最終的に[[心電図]]を根拠として、ボールドウィンの心臓が健康である事を認めた<ref>Evans, p. 221.</ref>。
 
国王の政治的な支持層は散在しており、チャーチル、[[オズワルド・モズレー]]、[[グレートブリテン共産党|共産主義者]]などの主要政党から疎外された政治家から成り立っていた<ref>Williams, pp. 179–181.</ref>。 元首相の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]も、シンプソンの事は嫌っていたものの国王を支持していた。しかし、彼は愛人の{{仮リンク|フランセス・ロイド・ジョージ (ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵夫人)|label=フランシス・スティーブンソン|en|Frances Stevenson}}と休暇のため[[ジャマイカ]]に滞在していたため、この危機の中で積極的な役割を果たす事はなかった<ref>Williams, pp. 198–199.</ref>。12月初旬、国王支持者が、チャーチルを中心とした「国王党」に合流するという噂が流れた。しかし、運動を組織化するための努力が払われる事はなく、チャーチルはそのような運動を率いる考えもなかった<ref>Williams, pp. 181–182.</ref>。とはいえ、国会議員たちが、国王の政治介入するという事態に恐怖を感じている状況下では、この噂は国王とチャーチルにとって大きな痛手となった<ref>Williams, pp. 199–200.</ref>。
 
== 注釈 ==