「全ルーシ」の版間の差分

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[[モンゴルのルーシ侵攻]]以前には、全ルーシの称号は、[[キエフ・ルーシ]](キエフ大公国。当時の国称はルーシ)の[[ヴェリーキー・クニャージ]](大公)である[[キエフ大公]]によって散発的に用いられた<ref>Горский, 2007, с. 57—59. </ref>。全ルーシを自身の称号に付するのは、自身はルーシ全域を政治的に統一し、諸公の頂点に立つものである、という意志を示すものであった(なお、用いた統治者が、必ずしもルーシ全域の諸公を支配下に治めていたわけではない)。史料においては、[[フセヴォロド1世|フセヴォロド・ヤロスラヴィチ]]、[[ウラジーミル・モノマフ]]、[[ユーリー・ドルゴルーキー]]、[[ロスチスラフ1世|ロスチスラフ・ムスチスラヴィチ]]らのキエフ大公に用いた例がみられる。また[[クニャージ]](公)である[[スモレンスク公]][[ムスチスラフ3世|ムスチスラフ・ロマノヴィチ]]、ガーリチ・ヴォルィーニ公[[ロマン・ムスティスラーヴィチ|ロマン・ムスチスラヴィチ]]に対しても、全ルーシの語を用いた記述がみられる。
 
モンゴルのルーシ侵攻によって[[キエフ]]が凋落すると、[[ジョチ・ウルス]]は、[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]の支配者がヴェリーキー・クニャージ(大公)の称号をすることを承認した([[ウラジーミル大公]])。当時、ウラジーミル大公位は[[トヴェリ大公|トヴェリ公]]、[[モスクワ大公|モスクワ公]]らの諸公によって争われていたが、次第にモスクワ系諸公が優位を確立し、[[イヴァン1世|イヴァン・カリター]](イヴァン1世)以降のモスクワ系ウラジーミル大公(モスクワ大公{{refnest|group="注"|この時期の統治者は、正確には「ウラジーミル大公」位を併せ持つ「モスクワ公」であるが、日本語文献では「モスクワ大公」とも表記される。}})は、皆が全ルーシを称号に付した<ref>Жалованная грамота великого князя Ивана Даниловича Калиты печорским сокольникам. // Акты социально-экономической истории Северо-Восточной Руси конца XIV — начала XVI в. Т. 3. — М.; Л., 1964. — С. 15. </ref>。[[ビザンツ帝国]]からの書簡においても、イヴァン1世、その子の[[セミョーン (モスクワ大公)|セミョーン]]、[[イヴァン2世]]、[[ドミトリー・ドンスコイ]]、[[ヴァシーリー1世|ヴァシリー1世]]に対し、「全ルーシの大王({{lang|el|Μέγας ῥὴξ πάσης Ῥωσίας}})」という表記が付されている<ref name="Соловьев142">Соловьев, 1957, с. 142.</ref>{{refnest|group="注"|「全ルーシの大王」は、「{{lang-ru|великий король всей России}}」からの[[重訳]]による。}}。これらの表記は[[パトリキ]](ビザンツの貴族階級)が用いたのみならず、ビザンツ皇帝[[ヨハネス6世カンタクゼノス|ヨハネス6世]]の1347年の書簡にも見られる。おそらく、これらはビザンツ側が一方的に用いただけではなく、ルーシの統治者自身もビザンツへの書簡の中で自称していたと考えられる<ref name="Соловьев142"></ref>。
 
[[File:Печать с Духовного завещания Дмитрия Донского.svg|thumb|200px|[[ドミトリー・ドンスコイ]]の印章(14世紀末)。右、上から4、5行目に全ルーシ]]