「坂本龍馬」の版間の差分

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次に龍馬ブームが起きるのは[[日露戦争]]時である。日露が国交を断絶した明治37年([[1901年]])[[2月6日]]、皇后・[[昭憲皇太后|美子]]の夢枕に白衣を着た37、8歳の男性が立ち、「微臣ハ坂本龍馬ニ候ガ」<ref name="忠魂碑">{{Cite web|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hi144.html/|title=HI144 坂本龍馬忠魂碑|accessdate=2018-11-11|publisher=京都市|website=情報提供システム「フィールド・ミュージアム京都」}}</ref> と名乗り、「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣[[田中光顕]](土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まることとなった<ref>菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』pp.346-348</ref>。
またこのころ、寺田屋伊助<ref>龍馬が寺田屋で襲撃された際に女将であった[[お登勢]]の子</ref> が偶然龍馬の手紙を持って[[逓信大臣]][[大浦兼武]]のもとを訪れており、皇后は龍馬を哀悼して弔慰金を下賜している。これに感動した伊助は基金を募り、同年12月、[[京都霊山護国神社]]に『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』を建立した。題字は皇后宮夫を務めていた[[香川敬三]]が揮毫、碑文は大浦兼武が撰んでおり、田中光顕の弔歌も刻まれている<ref name="忠魂碑"/>。また寺田屋の隣に複製の日が設置されている<ref name="忠魂碑"/>。
 
庶民の間でも龍馬は維新の偉人として人気者となり、戦前には龍馬や海援隊を主題とした映画・演劇が多数製作されている。