「梶田直繁」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[加治田政直]]<ref>清和源氏の系譜、[[武田信賢]]6代孫加治田民部少輔政直。</ref><ref>五輪塔 碑文 「[[清和天皇]]七代權從五位左兵衛源義光 十四代武田大膳夫信賢六代加治田 民部少輔政直住濃州武儀郡加治田村 嫡子隼人正直繁始住尾州春日井郡篠 木荘下市場村其後」</ref>の子として[[美濃国]][[加治田村]]<ref>現[[加茂郡]][[富加町]]。</ref>にて誕生。
 
[[加治田村]](梶田)に住んでいたが、[[篠木荘]][[下市場村]]に来住し、[[豊臣秀吉|木下秀吉]]に仕官<ref>梶田氏の履歴 「清和源氏の系譜をひく、武田大膳夫信賢6代孫加治田民部少輔政直が、美濃[[武儀郡]]加治田村(現加茂郡[[富加町]][[加治田]])に住んでいたが、その嫡子隼人正直繁が篠木荘下市場村に来住し、秀吉に仕官した。」</ref>する。[[永禄]]9年([[1566年]])8月、[[加治田衆]]を筆頭に[[中濃攻略戦]]後、美濃西部へ侵攻を開始する。9月に砦を[[墨俣]]に築き拠点とするにあたり、木下秀吉の[[川並衆]]・土着武士の一人として、[[稲田大炊介]]、[[蜂須賀正勝]]、[[前野長康|前野将右衛]]と共に参陣。鉄砲[[組頭]]を務めた<ref>豊臣秀吉譜 「秀吉が信長の部下であった頃、永禄9年(1566年)閏8月、信長の命により美濃の斎藤竜興を攻めたさい、かれをはじめ蜂須賀小六・稲田大炊・青山小助らの篠木・柏井・品野などの土着武士7,200余名を動員して斎藤軍を撃破したとしている。」</ref><ref>前野文書 「一 鉄砲組頭 [[青山小助]]殿 青山小助は新七の倅なり 梶田隼人殿」</ref><ref>『永禄墨俣記』(墨俣一夜城築城記録)</ref>{{信頼性要検証|date=2011-12}}<!--『永禄墨俣記』は信頼性に疑問がある。ウィキペディアの「武功夜話」の項参照。-->。
 
その後、藤吉郎の[[旗本]]として傍らで各合戦に従軍し仕えた<ref>梶田家保存の戦記 「蜂須賀、加治田、州の股一戦と一夜城建設働きの事。信長其計あらん事を察し藤吉郎が言に任せ、其旨命じければ、藤吉郎豫て其用意やしたりけん、[[蜂須賀]]、[[加治田]]、[[稲田]]{{要曖昧さ回避|date=2021-4}}、[[日比野]]の輩に命じ、美濃国端立山多芸山より一夜の間に数多の竹木を州股川へ切落し、一千人の人夫に命じ河の北尾張の地にて、抗下梁柱垂木を絵図に合せて作り出し、先頭の人夫を以て河の南美濃に於て深さ二丈の堀を掘らせ、その土を以て砦の土台を築かせ息もつかず働きける。斉藤方はかかる手立あるとは知らず―(中略)―翌朝美濃勢大軍にて押し寄せ、遥に州股を監み見るに、不思議なるかな一夜の内に霧あらざるに、虹の如く雨天に竜に似たり、一帯の巨城忽然と湧出して、旗を立兵器をならべ数千の精鋭、厳重に是を守り馬出しの外には柵を張り、[[逆茂木]]を引□用意の兵三千計矢尻を揃へ、筒先を並べ敵寄らば討ち掛らんと勢い込んで構えたり。美濃勢大きに肝冷し茫然として酔える如く、是必ず天狗鬼神の所為なるべし―(中略)―信長大いに愛悦び頓て州股城へ来り給、藤吉郎が大功を称し、小六兄弟、加治田、稲田、日比野、[[青山]]なんといえる勇士皆御目見仰付られ、藤吉郎が[[旗本]]にて益々忠勤を励むべしと金銀を出し賞し給―(略)― 。」{{要出典|date=2011-12}}<!--何に載っているのか? もし刊行されておらず、一般に観覧できないものならば検証可能性を満たさない。また、一般に知られない一次資料は信頼できる情報源とは言えない。--></ref>。