「島津斉彬」の版間の差分

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*[[寺島宗則]] 「斉彬公は脳が二つあったかと思う。話をするうちに、小姓や小納戸役などが出てきて、何はこう致しました、これよりどう致しましょうと申し出ますると、それはこうこうして、それはこうせよなど、下知を致す様なことで、そういう時に、話を止めるが嫌いであって、止めずに語らなければならぬことであった。そういう人であったから、今考えると脳が二つあったろうと思う」<ref>「逸話文庫 通俗教育 志士の巻」</ref>
*[[伊藤博文]]
**「彼の御方は非常の豪傑で卓絶した人であった。今から考えて見ると感服する事が多い。徳川幕府で紀州家から将軍を迎えた時、紀州の附家老、安藤だったか、水野だったか、御両敬と云う事を申込んだ。向うが和泉守様と云えば、此方が修理夫様と云うのが御両敬だ。そうすると西郷は鹿児島の御庭番か何かして居るときであったらしい、斉彬公を諌めて『彼はどうも奸物です。彼の奸物に御両敬を御申込になるのは宜しくない』と云うた。そうすると斉彬公は『馬鹿を云うな。それは貴様の知恵ぢゃなかろう。水戸の藤田東湖からでも習うて来たのであろう』と云われたことがある。中々非凡の人である」<ref name="digital">『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』近代デジタルライブラリー</ref>
**「或る時、長崎から和蘭人を聘したことがある。そうすると鹿児島の人が石を投げて困る。今の大山(侯爵)などもその投げた仲間だったそうだ。そこで斉彬公が馬に乗って迎えに来られ、『石を投げるなら己れにも輿に投げろ」と云われた。凡庸の大名の出来る事ぢゃない。家来の云う言を聴いて、それに籠絡される様な人ではない」<ref name="digital"/>
**「寺島だったか誰の話だったか忘れたが、公が『是を翻訳しろ」と云われたので、その本を見ると綿の事が書いてあった。『築城とか兵学に関係するものだと思いましたから、是はどうも綿の事であります』と訳者が云うたら、『無論の事だ。それを翻訳しろ。他日日本を困らせるものは是だ」と云われた。日本に綿糸を輸入する事をその時分から着眼せられて居ったと見える。惜しいことには病気で早く世を去られた」<ref name="digital"/>