「ハンス・ニベル」の版間の差分

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アクスル。同義反復。
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=== ベンツ社 ===
さまざまな機械工場に勤めて専門的な技能を学んだ後、1904年3月1日にベンツ社(Benz & Cie.)に入社して、設計者として働き始めた{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。ニベルの出世は早く、すぐにデザイン部門の副チーフとなり、1908年に弱冠28歳の若さで設計部門の責任者に昇進した{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。1909年には200馬力もの出力を発生するエンジンを搭載したレーシングカーのベンツ・タイプRE(ベンツ・200HP)を開発し{{R|Miyano2012_8}}、次いで、それを改修した速度記録車の[[ブリッツェン・ベンツ]]などを開発した{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。市販車では1908年に発表した{{仮リンク|ベンツ・6/14 PS|de|Benz 6/14 PS}}などを手がけた{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。
 
1911年11月には同社の署名権限者の一人となり、1917年8月には取締役会の副メンバーとなり、経営面にも参加を始める{{R|Ludvigsen1995_38}}{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。これは自動車設計における貢献に対するものというより、[[第一次世界大戦]]の開戦以前にニベルが生産体制を整えていたことで、同社が機会を逃さず軍需製品の需要を満たせたことに報いるものだった{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。戦後の1922年8月には取締役会の正式メンバーとなって経営陣に加わった{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。
 
[[File:Benz Tropfenwagen.jpg|thumb|ベンツ・トロップフェンワーゲン(1923年)]]
1923年には{{仮リンク|ベンツ・トロップフェンワーゲン|de|Benz-Tropfenwagen}}を開発し、同車はグランプリレースに投入された{{R|group="W"|Daimler-9908017|Gazoo-140502}}。同車は、流線形のボディ形状が特徴だが、車体内部も、足回りには四輪[[独立懸架]]式サスペンションを採用し、エンジンは車体後方に搭載する([[リアエンジン]])というどちらも当時のレーシングカーとしては異例の先進的な技術が投じられた車両だった{{R|Akai1999_63}}。同年には世界初の[[ディーゼルエンジン]]搭載の公道用車両となる農業用トラクターを世に送り出した{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。
 
1924年には近い将来の合併に向けて、{{仮リンク|ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト|label=ダイムラー|en|Daimler Motoren Gesellschaft}}の取締役会にも名を連ね、同社の技術部長である[[フェルディナント・ポルシェ]]と同格の権限を与えられる{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。[[ヴィルヘルム・キッセル]]による主導の下、ニベルも両社の合併に尽力し、1926年にベンツ社とダイムラーは合併してダイムラー・ベンツが設立され、ニベルは同社の取締役の一人となった{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。
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1931年に発売された[[メルセデス・ベンツ・W15|170]](W15)では、量産車としては世界で初めて四輪独立懸架式サスペンションを採用した{{R|group="W"|Gazoo-140502}}。それにより、小型車でありながら安定した乗り心地と操縦性を実現し、ブレーキも油圧式ブレーキを四輪に装備し、[[トランスミッション]]には{{仮リンク|増速駆動|label=オーバードライブ|en|Overdrive (mechanics)}}を備えるなど、数々の先進的な機能が盛り込まれた{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。
 
中でもこの時点における頂点と言われるのは、1932年の{{仮リンク|メルセデス・ベンツ・W22|label=380|en|Mercedes-Benz 380 (1933)}}(W22)である{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。この車両は2年間で154台しか売れず、商業的には失敗だったが、技術的にはそれまでのメルセデス・ベンツ車両の集大成と言うべきものだった。[[スーパーチャージャー]]搭載の「380K」では、[[OHV|オーバーヘッドバルブ]](OHV)のエンジンをコンプレッサーで過給し、最上位モデルでは140馬力を出力し、時速145{{nbsp}}kmで走行することが可能だった。車体はフロントを[[ダブルウィッシュボーン式サスペンション|ダブルウィッシュボーン]]、リアを[[スイングアクスル式サスペンション|スイングアクル式]]とした独立懸架式サスペンションを備え、こうした設計は同じニベルの作であるグランプリカーの[[メルセデス・ベンツ・W25|W25]]にも影響を与えた{{R|Ludvigsen1995_136}}{{R|group="W"|Daimler-9361627}}。
 
1934年にはこれまでの車両とはコンセプトを異にする小型車{{仮リンク|メルセデス・ベンツ・W23|label=130|de|Mercedes-Benz W 23}}(W23)を発表した{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。この車両もまた商業的には失敗した内のひとつだが、かつてのベンツ・トロップフェンワーゲンと同じ[[リアエンジン]]のレイアウトを採用した、「リアエンジンの小型車」であり、その先進的な設計は高く評価されることになる{{R|group="W"|Daimler-9908017}}{{Efn|[[フォルクスワーゲン・タイプ1]](通称「ビートル」)のプロトタイプ(1935年)が試作されるより前に発売されており、この車両も「ビートルの前のビートル」に数えられることのある1台である。}}。
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ニベルの死により、技術部長の職は[[マックス・ザイラー]]が引き継いだ{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。レーシングカーの開発体制は立て直しが必要になり、ザイラーは専従できなかったため、1936年半ばに[[フリッツ・ナリンガー]]が管轄するテスト部門の下にレース部門(レーシングカー開発部門)が新たに設けられ、[[ルドルフ・ウーレンハウト]]がその責任者となった。
 
市販車においてはニベルの遺産が活用され、ニベルが開発した車両の直接の発展形として、{{仮リンク|メルセデス・ベンツ・W29|label=500K/540K|en|Mercedes-Benz 500K }}(W29。1934年)、[[メルセデス・ベンツ・W136|170V]](W136。1936年)、{{仮リンク|メルセデス・ベンツ・W138|label=260D|en|Mercedes-Benz 260 D}}(W138。1938年)などが開発された{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。技術面でも、独立懸架式サスペンション、[[スイングアクル式サスペンション]]、オーバードライブ、ディーゼルエンジンといったニベルが導入した技術はその後のダイムラー・ベンツでも引き継がれ、開発が加えられていった{{R|group="W"|Daimler-9908017}}。
 
== 代表作 ==