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{{quotation|私もシンプソン夫人も、彼女が王妃になるべきだと主張した事はありません。私たちが望んでいたのは、結婚して幸福になる事、彼女に私の妻にふさわしい称号と尊厳が与えられる事でした。ようやく皆さんを信頼する事ができたので、しばらくの間離れる事にしました。そうすれば、私が言った事について、落ち着いて静かに、しかし過度に遅れる事なく考える事ができるでしょう<ref>The Duke of Windsor, p. 361.</ref>。}}
 
ボールドウィンは、「多くの人に衝撃を与えるだろうし、憲政の原則に対する重大な侵害になる」として、この演説を阻止した<ref name=bbc>{{citation|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/2707489.stm|first=Dominic|last=Casciani|work=BBC News|title=King's abdication appeal blocked|date=30 January 2003|access-date=2 May 2010}}</ref>。 近代的な慣習では、国王は閣僚の助言や相談によってのみ行動が可能となる。エドワードは、政府に対する国民の支持を求めるにあたり、拘束力を伴う閣僚の助言に反対し、代わりに個人として行動する事を選択した。エドワードの閣僚たちは、エドワードがこの演説を提案する事によって、憲政上の慣習を軽視する態度を明確にして、国王の政治的中立性を脅かしたと考えた<ref>Beaverbrook, p. 71; Williams, p. 156.</ref>。
 
2013年に公開された[[内閣府 (イギリス)|内閣府]]のファイルによって、1936年12月5日以前、[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]の[[ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)|ジョン・サイモン卿]]が、イギリスの電話サービスを管理する{{仮リンク|中央郵便局 (イギリス)|label=中央郵便局|en|General Post Office}}に「フォート・ベルヴェデーレおよびバッキンガム宮殿とヨーロッパ大陸の間の電話通信」を傍受するよう命じていた事がわかっている<ref>{{citation|url=https://www.theguardian.com/uk/2013/may/23/ministers-ordered-bugging-king-edward|author=Norton-Taylor, Richard|title=Ministers ordered bugging of King Edward VIII's phones, records reveal|journal=The Guardian|date=23 May 2013|access-date=23 May 2013}}</ref>。
 
12月5日、王位を維持したまま、シンプソンと結婚する事は不可能と言われ、帝国に向けた放送で「自身の言い分」を説明するという提案が憲政上の理由で阻止されたため<ref>The Duke of Windsor, pp. 378–379.</ref>、エドワードは第3の選択肢を選んだ<ref>The Duke of Windsor, pp. 386–387.</ref>。
 
== 法的操作 ==
1936年10月27日のシンプソンの離婚審判|ヘンリー]]、[[ジョージ (ケント公)|ジョージ]])が署名した退位詔書(1936年12月10日)|upright=1.25]]
'''エドワード8世の退位'''({{lang-en|Abdication of Edward VIII}})は、[[1936年]]に行われた[[イギリスの君主]]の[[退位]]。当時の[[王・皇帝#大英帝国|王・皇帝]]だった[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]が、最初の夫と離婚した後、再婚した夫との離婚話を進めていたアメリカ人の[[ソーシャライト]]、[[ウォリス・シンプソン]]に求婚した事から始まり、[[イギリス帝国|大英帝国]]の憲政を揺るがす危機に発展した。
 
この結婚には、[[イギリス]]本国と[[イギリス連邦]]の[[自治領]]の政府が反対した。宗教的、法的、政治的、道義的な観点から反対意見が出されたのである。イギリスの君主であるエドワードは、[[イングランド国教会]]の名目上の頭領であり、イングランド国教会は離婚者の元配偶者が存命の場合、教会で再婚する事を認めていなかった{{efn|2002年、[[イングランド国教会]]は、一定の条件の下で、離婚経験者が教会で再婚する事を認めた<ref>{{citation|url=http://www.bbc.co.uk/religion/religions/christianity/ritesrituals/divorce_1.shtml|title=Divorce in Christianity|publisher=BBC|date=23 June 2009}}</ref>。}}。このため、エドワードはシンプソンと結婚した上で、玉座にとどまる事はできず、過去に2度の婚姻歴があったシンプソンは、政治的にも社会的にも王妃の候補として不適任と広く見なされていた。[[エスタブリッシュメント]]の間では、彼女は国王への愛より、財産や地位を目当てにしていると思われていたにも関わらず、エドワードは、シンプソンを愛しており、彼女の2度目の離婚が成立したらすぐにでも結婚するつもりだと宣言した。
 
シンプソンを王妃として受け入れる事への広範な拒否反応、そしてエドワードが彼女との結婚をあきらめる事を拒否した事によって、1936年12月の彼の[[退位]]につながった{{efn|12月10日に、退位詔書が署名され、翌日には{{仮リンク|エドワード8世退位法 (1936年)|label=エドワード8世退位法|en|His Majesty's Declaration of Abdication Act 1936}}として法制化された。[[南アフリカ連邦]]議会は12月10日に遡って退位を承認し、[[アイルランド自由国]]は12月12日に退位を承認した<ref name=Heard>{{Citation| first=Andrew| last=Heard| title=Canadian Independence| year=1990| place=Vancouver| publisher=Simon Fraser University| url=https://www.sfu.ca/~aheard/324/Independence.html| accessdate=6 May 2009}}</ref>。}}。
 
彼の後継者として弟のアルバートが、[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]として即位した。エドワードは退位の翌年、[[ウィンザー公爵]]位と{{仮リンク|殿下 (ロイヤル・ハイネス)|label=殿下|en|Royal Highness}}の称号が与えられ、シンプソンと結婚した。夫妻は夫が35年後に没するまで婚姻を継続した。
 
== 前触れ ==
[[File:Bundesarchiv Bild 102-13538, Edward Herzog von Windsor.jpg|thumb|left|upright|alt=Edward wearing a top hat and bow tie|1932年のエドワード]]
1931年1月10日、[[プリンス・オブ・ウェールズ]]だったエドワードは、[[テルマ・ファーネス|ファーネス子爵夫人]]から、イギリスの海運会社経営者{{仮リンク|アーネスト・シンプソン|label=アーネスト・アルドリッチ・シンプソン|en|Ernest Simpson}}のアメリカ人妻であるウォリス・シンプソンを紹介された。アーネスト・シンプソンはウォリスの2番目の夫で、最初の夫だった[[アメリカ海軍]]パイロットの{{仮リンク|エール・ウィンフィルード・スペンサー・ジュニア|label=ウィン・スペンサー|en|Earl Winfield Spencer Jr.}}とは1927年に離婚している。1934年、エドワードと交際中だったファーネス夫人がアメリカの親戚を訪ねている間に、ウォリス・シンプソンとエドワードが恋愛関係になったと一般的に言われている。しかし、エドワードは父の[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]に対して、シンプソンとは肉体関係にはなく、彼女を愛人と表現するのは不適切だと断固と主張した<ref>Ziegler, p. 233</ref>。エドワードはシンプソンとの関係によって、彼の両親との関係をさらに弱める事になった。ジョージ5世と[[メアリー・オブ・テック|メアリー王妃]]は、1935年に[[バッキンガム宮殿]]でシンプソンに謁見したものの<ref>Windsor, p. 255</ref>、その後、彼らは彼女を迎え入れる事を拒否した<ref>Bradford, p. 142</ref>。エドワードとシンプソンは、ひそかに[[ロンドン警視庁]]の{{仮リンク|特別部|en|Special Branch}}によって尾行されており、彼らの関係の性質や、ウォリス・シンプソンの私生活について、「悪質なゴシップの追求」や「秘密の恋人」の特定を含む調査報告書が作成された<ref>{{citation|last1=Bowcott|first1=Owen|last2=Bates|first2=Stephen|title=Car dealer was Wallis Simpson's secret lover|periodical=The Guardian|date=30 January 2003|url=https://www.theguardian.com/uk/2003/jan/30/freedomofinformation.monarchy3|access-date=1 May 2010|location=London}}</ref>。疑わしい過去を持つアメリカ人の離婚経験者が、[[法定推定相続人]]に重大な影響力を持つという観測は、政府や政府関係者の間に不安をもたらした<ref>Ziegler, pp. 231–234</ref>。
 
1936年1月20日、エドワード8世が父の跡を継いだ後、シンプソンは国王の賓客としてより多くの公式行事に出席した。彼女の名前は{{仮リンク|王室行事日報|en|Court Circular}}に定期的に登場していたにもかかわらず、彼女の夫の名前は目立たなかった<ref>Broad, p. 37.</ref>。その年の夏、国王は恒例の[[バルモラル城]]の長期滞在を避け、シンプソンと地中海東部で休暇を過ごした。この事はアメリカやヨーロッパ大陸の報道機関で広く取り上げられたが、イギリスの報道機関は沈黙を守っていた。 しかし、外国の報道に接する事ができたカナダ人や外国在住のイギリス人は、その報道に大きな衝撃を受けた<ref>Broad, p. 47.</ref>。
 
[[File:King Edward VIII and Mrs Simpson on holiday in Yugoslavia, 1936.jpg|thumb|right|地中海でのエドワード8世とウォリス・シンプソン、1936年]]
 
10月になると、上流社会や外国では、エドワードはシンプソンの離婚が成立して自由の身になったら、結婚するつもりではないかと噂されるようになった<ref>Beaverbrook, pp. 28–33; Windsor, p. 314; Ziegler, pp. 292–295.</ref>。 同月末には、彼女が離婚を申請し、アメリカの報道機関が彼女と国王の結婚が間近に迫っていると報じた事で、危機は一気に高まった<ref>Broad, p. 56; Williams, p. 85.</ref>。11月13日、{{仮リンク|国王秘書官|en|Private Secretary to the Sovereign}}{{仮リンク|アレック・ハーディング (第2代ペンズハーストのハーディング男爵)|label=アレック・ハーディング|en|Alec Hardinge, 2nd Baron Hardinge of Penshurst}}は、国王に警告の手紙を出した。「陛下とシンプソン夫人の友好関係に関するイギリスの報道機関の沈黙は維持できそうにありません... 報道機関が率直に報じている外国在住のイギリス人からの手紙から判断すると、その影響は大きな物になるでしょう<ref>Broad, p. 71.</ref>。」イギリスの上級閣僚たちはハーディングが国王に手紙を書いた事を察知しており、彼の手紙の下書きにも関わったとも推測されている<ref>Williams, pp. 93–94.</ref>。
 
翌週の月曜日(11月16日)、国王は[[スタンリー・ボールドウィン]][[イギリスの首相|首相]]をバッキンガム宮殿に招き、シンプソンと結婚するつもりである事を伝えた。ボールドウィンは、そのような結婚は国民に受け入れられないと答えた上で、「王妃は一国の妃になるのです。だから、王妃を選ぶ時には、国民の声を聞かなければなりません。」と述べた<ref>Broad, p. 75.</ref>。ボールドウィンの考えは、元[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]]でロンドン駐在のオーストラリア[[高等弁務官 (コモンウェルス)|高等弁務官]]だった{{仮リンク|スタンレー・ブルース|en|Stanley Bruce}}も共有していた。ハーディングが国王に手紙を出した同じ日、ブルースはハーディングに面会した後、ボールドウィンに手紙を出し、国王とシンプソンの結婚に恐怖を感じている事を伝えている<ref>Williams, p. 101.</ref>。
 
この状況下でも、イギリスのマスコミはこの問題について沈黙を守っていたが、12月1日に{{仮リンク|ブラッドフォード主教 (教区)|label=ブラッドフォード主教|en|Bishop of Bradford (diocese)}}の{{仮リンク|アルフレッド・ブラント|en|Alfred Blunt}}が教区会議で演説を行い、国王が[[恩寵 (キリスト教)|神の恩寵]]を必要としている事に言及し、 「私たちは、彼が自らの必要性を認識している事を願っています。私たちの中には、彼が自らの必要性に気づいている事をもっと積極的に示してほしいと思う人もいます<ref>Williams, p. 134.</ref>。」と述べた。これは、危機に対する著名人最初の公式発言として報道され、翌日の一面トップを飾るニュースとなった。しかし、後にその事を聞かれた主教は、演説の原稿を書いた時点ではシンプソンの事は知らなかったと答えている<ref>Williams, p. 146.</ref>。2日後、エドワードの職員の助言により、シンプソンはイギリスを離れて南フランスに向かい、マスコミの激しい注目から逃れようとした。彼女も国王も、この別離に大きな衝撃を受けていた。涙の出発の際、国王は「私は絶対に君を諦めない。」と言った<ref>Williams, pp. 149–151.</ref>。
 
== 反対 ==
複数の方面から国王と彼の結婚に対する反対意見が届いていた。王室を近代化し、より身近なものにしたいというエドワードの希望は、多くの国民から評価されていたが<ref>Williams, pp. 8–11.</ref>、イギリスのエスタブリッシュメントからは不信感を抱かれていた<ref>The Duke of Windsor, p. 136.</ref>。エドワードは貴族たちの伝統や儀式を軽視する事によって貴族たちを動揺させ、多くの人々は、彼が受け入れられた社会的規範やモラルを放棄する事に不快感を覚えた<ref>The Duke of Windsor, p. 301; Beaverbrook, p. 14; Williams, pp. 70–71.</ref>。
 
=== 社会と道義 ===
[[File:Wallis Simpson -1936.JPG|thumb|right|ウォリス・シンプソン、1936年]]
 
政府閣僚や王室は、ウォリス・シンプソンの経歴や行動は、王妃として受け入れがたい物だと考えていた。彼女に関する噂や陰口が出回った<ref>例としてWilliams, p. 40.における[[ヴァージニア・ウルフ]]の日記の引用</ref>。 国王の母であるメアリー王妃は、シンプソンが中国の売春宿で学んだ方法により、[[不定愁訴|原因不明]]の[[性機能障害]]から解放する事でエドワードをある種の性的支配下に置いていたのではないかと述べた<ref>Ziegler, p. 236.</ref>。この視点は、[[カンタベリー大主教]]の[[チャプレン]]である{{仮リンク|アラン・ドン|en|Alan Don}}も一部共有しており、彼は国王が「性的に異常であり、それが夫人が彼を支配している理由の説明になるかもしれない」と書いている<ref>Howarth, p. 61.</ref>。 エドワード8世の公式伝記作家である{{仮リンク|フィリップ・ジーグラー|en|Philip Ziegler}}でさえ、「ある種の[[SM (性風俗)|サドマゾヒスティック]]な関係があったに違いない... (エドワードは)彼女による自らへの軽蔑やいじめを楽しんでいた。」と述べている<ref>Quoted in {{citation|author=Jones, Chris|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/2699035.stm|title=Profile: Wallis Simpson|date=29 January 2003|publisher=BBC|access-date=2 May 2010}}</ref>。
 
シンプソンを尾行していた警察の刑事は、彼女は、エドワードとの交際中に、ガイ・トランドルという既婚の自動車整備士兼セールスマンとも交際していたと報告している<ref>Williams, pp. 96–97.</ref>。 この事は、王族を含む体制側の幹部にも伝わっていた可能性がある<ref>Vickers, p. 163.</ref>。 後に[[在イギリスアメリカ合衆国大使|駐英アメリカ大使]]となった[[ジョセフ・P・ケネディ]]は彼女を「売春婦」呼ばわりし、彼の妻[[ローズ・ケネディ|ローズ]]は彼女との会食を拒んだ<ref>Vickers, p. 185.</ref>。
 
ウォリスはエドワードの財産が目的であると思われており、彼の{{仮リンク|侍従 (イギリス連邦)|label=侍従|en|Equerry}}は、彼女は「財産を確保した」として、最終的には彼の元を去るだろうと書いている<ref>{{仮リンク|ジョン・エアード (侍従)|label=ジョン・エアード|en|John Aird (equerry)}}の日記から引用 Ziegler, p. 234.</ref>。後に首相となる[[ネヴィル・チェンバレン]](当時は財務大臣)は、日記の中で彼女の事を「国王に恋している訳でもなく、自分の目的のために彼を利用している。まったく不謹慎な女だ。彼女は既に金と宝石で彼を破滅させてしまった......」と書いた<ref>Ziegler, p. 312.</ref>。
 
戦間期の英米関係は緊張しており、イギリス人の大半はアメリカ人を[[王妃]]として受け入れる事に抵抗を覚えていた<ref>{{citation|last=Pope-Hennessy|first=James|author-link=James Pope-Hennessy|title=Queen Mary|publisher=George Allen and Unwin Ltd|location=London|year=1959|page=574}}</ref>。 当時、一部のイギリスの上流階級はアメリカ人を軽蔑し、社会的に劣っていると考えていた<ref>Williams, pp. 40–41.</ref>。 一方でアメリカの一般市民は明確に結婚を支持しており<ref>Williams, p. 266.</ref>、ほとんどのアメリカの報道機関も同様であった<ref>Williams, p. 90; Ziegler, p. 296.</ref>。
 
=== 宗教と法律 ===
当時、イングランド国教会は、元配偶者が存命中に離婚経験者が教会で再婚する事を禁じていた。君主はイングランド国教会との関係を持つ事が法律で定められており、その名目上の頭領、すなわち{{仮リンク|イングランド国教会首長|label=首長|en|Supreme Governor of the Church of England}}であった。1935年、イングランド国教会は「いかなる状況においても、キリスト教徒の男女が元配偶者の存命中に再婚できない」事を再確認した<ref>{{citation|author=Ann Sumner Holmes|title=The Church of England and Divorce in the Twentieth Century: Legalism and Grace|url=https://books.google.com/books?id=8CglDwAAQBAJ&pg=PA44|year=2016|publisher=Taylor & Francis|page=44|isbn=9781315408491|ref=none}}</ref>。[[カンタベリー大主教]]の{{仮リンク|コスモ・ゴードン・ラング|en|Cosmo Gordon Lang}}は、イングランド国教会の首長である国王は、離婚経験者と結婚できないとした<ref>G. I. T. Machin, "Marriage and the Churches in the 1930s: Royal abdication and divorce reform, 1936–7." ''Journal of Ecclesiastical History'' 42.1 (1991): 68–81.</ref>。
 
もしエドワードが、2人の存命の元配偶者がいる離婚経験者のウォリス・シンプソンと民事婚の形で結婚したとするなら、それは教会の教義や、教会の職権上の責任者としての彼の役割と真っ向から対立する事につながった<ref name=time>{{citation|title=A Historic Barrier Drops|journal=Time|date=20 July 1981|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,954854,00.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20071213220519/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,954854,00.html|url-status=dead|archive-date=13 December 2007|access-date=2 May 2010}}</ref>{{efn|[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]は最初の結婚を終わらせる目的で、[[イングランド国教会#ローマとの分裂|イングランド国教会をローマから分離した事]]で知られるが、実際には離婚しておらず、[[婚姻の無効|婚姻は無効]]になっていた<ref>{{citation|last=Laliberte|first=Marissa|date=19 March 2020|title=How Queen Elizabeth II Will Step Down—Without Giving Up Her Title|work=Reader's Digest|url=https://www.rd.com/article/how-queen-elizabeth-step-down-without-abdicating/|access-date=1 July 2020}}</ref>。 ヘンリー8世の6度の結婚のうち、3度が[[教会法]]で無効を宣告されている。 彼と[[キャサリン・オブ・アラゴン]]との婚姻は、[[近親相姦]]という理由で取り消された(キャサリンはヘンリーの兄である[[アーサー・テューダー]]と結婚していた)。ヘンリーと[[アン・ブーリン]]との結婚は、彼女が反逆罪で有罪判決を受けた後、無効とされた。彼と[[アン・オブ・クレーヴズ]]の結婚は、式の6か月後にアンが他の人物と婚約していたという口実で、結婚は成立しておらず無効とされた<ref>{{citation|last=Weir|first=Alison|author-link=Alison Weir|year=1996|title=Britain's Royal Families: The Complete Genealogy|publisher=Random House|location=London|isbn=978-0-7126-7448-5|pages=152–154}}</ref>。離婚は有効な婚姻を解消する物であるのに対し、無効はその婚姻自体が不成立であり、存在しなかった事を認定する物である。無効宣告された者は婚姻歴がないのに対し、離婚経験者は既に結婚歴がある事になる<ref>{{citation|title=Divorced, Beheaded, Died|last=Phillips|first=Roderick|work=History Today|date=July 1993|volume=43|issue=7|pages=9–12}}</ref>。}}
 
「性格の不一致」を理由にアメリカで成立したウォリスの最初の離婚は、イングランド国教会では認められておらず、イングランドの裁判所で争われた場合、[[イングランド法]]では認められなかった可能性がある。当時、イングランド国教会とイングランド法は、離婚の理由として[[姦通|不貞行為]]のみを認めていたのである。その結果、この論法によるなら、彼女の2度目の結婚も、エドワードとの結婚も、[[重婚]]とみなされて無効とされる<ref>Bradford, p. 241.</ref>。
 
=== 政治 ===
[[File:Fort Belvedere 1900s.jpg|thumb|upright|left|{{仮リンク|ウィンザー・グレート・パーク|en|Windsor Great Park}}の中にあるエドワードの邸宅、{{仮リンク|フォート・ベルヴェデーレ (サリー州)|label=フォート・ベルヴェデーレ|en|Fort Belvedere, Surrey}}]]
 
エドワードが、[[ウェールズ]]の[[世界恐慌]]で寂れた鉱山の村を訪ねた際、「何かをしなければならない<ref>The Duke of Windsor, p. 338.</ref>。」と発言した事で、選挙で選出された政治家の間では、伝統的に立憲君主が避けてきた政治問題への干渉を行うのではないかという懸念が広がった。[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]の[[ラムゼイ・マクドナルド]]は、国王の発言について、「このような突飛な行為は制限すべきである。政治の領域への侵犯であり、憲政上監視されるべきだ。」と書いている<ref>Ramsay MacDonald's diary, quoted in Williams, p. 60.</ref>。 ウェールズでは、エドワードの発言が受けたものの<ref> Williams, p. 59.</ref>、 [[スコットランド]]では、{{仮リンク|アバディーン王立診療所|en|Aberdeen Royal Infirmary}}の新棟の開業式への出席を、父親の喪中である事を理由に拒否した事で、国民から大変な不評を買った。開業式の翌日、休暇中の彼の姿が新聞に掲載された。 彼はシンプソンに会う事を優先して公務を入れさせなかったのである<ref>Vickers, p. 140; Ziegler, p. 288.</ref>。
 
[[プリンス・オブ・ウェールズ]]時代、エドワードは[[労働党 (イギリス)|労働党]]の{{仮リンク|カウンティ議会|label=郡議会議員|en|County council}}を大っぴらに「奇人」呼ばわりし<ref>The Duke of Windsor, p. 253.</ref>、政府の方針に反した演説を行っていた<ref>Beaverbrook, p. 20.</ref>。国王になってからも、彼の大臣の助言を受け入れない姿勢は続き、[[イタリア王国|イタリア]]が[[第二次エチオピア戦争|エチオピアに侵攻]]しても制裁を加える事に反対し、自国に亡命した[[ハイレ・セラシエ1世|エチオピア皇帝]]を迎える事を拒み、[[国際連盟]]の強化を支持しなかった<ref>Ziegler, pp. 271–272.</ref>。
 
ウォリス・シンプソンが[[ナチス・ドイツ]]の[[外国のエージェント|エージェント]]である事を知らされた[[イギリス政府]]の関係者は、この結婚にさらなる懸念を深めた。[[外務・英連邦・開発省|外務省]]は、[[ドイツ国]]の[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]駐英大使のリーク情報を入手し、それによれば、この結婚に反対する動機として「シンプソン夫人を通じて活動していた親独勢力への打撃になる」とする彼の強い見解が明らかになった<ref>Howarth, p. 62.</ref>。 シンプソンは、エドワードに送付された政府の機密文書を入手し、それを{{仮リンク|フォート・ベルヴェデーレ (サリー州)|label=フォート・ベルヴェデーレ|en|Fort Belvedere, Surrey}}の邸宅に無造作に置いていたと噂された<ref>Williams, pp. 196–197; Ziegler, pp. 273–274.</ref>。エドワードが退位してしばらくした後、フランスに逗留していたシンプソンの警備にあたっていた身辺警護官は、彼女が「ドイツに亡命する」可能性を示唆する報告書を[[ダウニング街]]に送っていた<ref>{{citation|url=https://www.theguardian.com/uk/2003/jan/30/highereducation.past|first=Owen|last=Bowcott|author2=Bates, Stephen|title=Fear that Windsors would 'flit' to Germany|journal=[[The Guardian]]|date=30 January 2003|access-date=2 May 2010}}</ref>。
 
== 検討された選択肢 ==
このような噂や議論の結果、イギリスの体制の中では、シンプソンが王妃になる事はできないという観測が強まっていった。[[スタンリー・ボールドウィン]]首相は、エドワードにシンプソンとの結婚は国民の大多数が反対するであろう事を明確に忠告し、もし大臣たちの忠告を聞かずに結婚するなら、内閣は総辞職する事になると迫った。国王は、後に自身で語った所によれば、「私は、シンプソン夫人が自由に結婚できるようになったら、すぐにでも結婚するつもりだ... もし政府が結婚に反対するなら、首相がそうするだろうと私に思わせたように、私は退位する準備ができている<ref name=duke>The Duke of Windsor, p. 332.</ref>。」と答えたという。 退位を示唆されて「驚いた<ref name=duke />」ボールドウィンは、国王からの圧力を受けて3つの選択肢についてさらに検討する事に同意した。
 
# エドワードとシンプソンが結婚し、彼女が王妃となる(王室の結婚)。
# エドワードとシンプソンは結婚するが、彼女は王妃にはならず、代わりに何らかの[[儀礼称号]]を得る([[貴賤結婚]])。
# エドワードの[[退位]]と彼の子孫の[[王位継承]]権の放棄、これによって彼は憲政上の問題を引き起こす事なく、結婚に関するあらゆる決定を行えるようになる。
 
[[File:KingBaldwin1926.jpg|thumb|right|カナダ首相 [[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]] (左) とイギリス首相 [[スタンリー・ボールドウィン]] (右)、 1926年]]
 
第2の選択肢は、ヨーロッパ大陸になら、エドワードの曽祖父にあたる[[アレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルク (1804-1885)|ヴュルテンベルク公アレクサンダー]]をはじめとする先例があったが、イギリスの憲政史上では類例がなかった。 [[自治領]]5ヵ国(オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、[[南アフリカ連邦|南アフリカ]]、[[アイルランド自由国]])の首相に尋ねた所、「第3の選択肢に代わる物はない」という意見が多数を占めた<ref>Bradford, p. 188.[[エイモン・デ・ヴァレラ]]を引用</ref>。[[カナダ首相]]の[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]]、[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]]の{{仮リンク|ジョゼフ・ライオンズ|en|Joseph Lyons}}、[[南アフリカの首相|南アフリカ首相]]の[[ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク]]は、第1と第2の選択肢に反対した。マッケンジー・キングはエドワードに対し「自分の心の中で正しいと信じる事」をすべきと助言し<ref name=MK555>{{citation|url=http://www.bac-lac.gc.ca/eng/discover/politics-government/prime-ministers/william-lyon-mackenzie-king/Pages/item.aspx?IdNumber=17479|publisher=[[Library and Archives Canada]]|title=The Diaries of William Lyon Mackenzie King|page=555|date=8 December 1936}}</ref>、カナダ政府はシンプソンへの感情よりも義務を優先するよう訴えた<ref name=Heard />。[[カナダの総督|カナダ総督]]の[[ジョン・バカン|トゥイーズミュア卿]]は、バッキンガム宮殿とボールドウィンに、カナダ人は国王に深い愛情を抱いているが、エドワードが離婚経験者と結婚したら、カナダの世論は憤慨するだろうと伝えた<ref>{{Citation| last=Hubbard| first=R. H.| title=Rideau Hall| publisher=McGill-Queen's University Press| year=1977| location=Montreal and London| page=[https://archive.org/details/rideauhallillust00hubb/page/187 187]| isbn=978-0-7735-0310-6| url=https://archive.org/details/rideauhallillust00hubb/page/187}}</ref>。[[ニュージーランドの首相|ニュージーランド首相]]の{{仮リンク|マイケル・ジョセフ・サヴィッジ|en|Michael Joseph Savage}}は第1の選択肢を否定し、第2の選択肢については「もし、これらの線に沿った何らかの現実的な解決策があるなら......可能かも知れない」と考えるが、最終的には「本国政府の決定に導かれるだろう」と答えた<ref>Williams, p. 130.</ref>。アイルランド自由国の{{仮リンク|アイルランド自由国行政評議会議長|label=行政評議会議長|en|President of the Executive Council of the Irish Free State}}の[[エイモン・デ・ヴァレラ]]は、イギリス政府との応対の中で、アイルランド自由国は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の国家であり、離婚が認められていないと述べた。彼は、イギリス国民がウォリス・シンプソンを受け入れないのであれば、退位が唯一の解決策であると考えた<ref>Williams, pp. 130–131.</ref>。11月24日、ボールドウィンは、3人の主要な対抗勢力の政治家に相談した。[[女王陛下の野党 (イギリス)|第一野党]]の{{仮リンク|公式野党党首 (イギリス)|label=党首|en|Leader of the Opposition (United Kingdom)}}の[[クレメント・アトリー]]と[[自由党 (イギリス)|自由党]]党首の{{仮リンク|アーチボルド・シンクレア|en|Archibald Sinclair, 1st Viscount Thurso}}、そして[[ウィンストン・チャーチル]]である。シンクレアとアトリーは、第1・第2の選択肢は受け入れられないという意見で一致し、チャーチルは政府を助ける事を約束した<ref>Williams, p. 113.</ref>。
 
しかし、チャーチルは政府を助けなかった。7月には、国王の法律顧問である{{仮リンク|ウォルター・モンクトン|en|Walter Monckton}}に離婚に反対するよう助言していたが、無視された<ref>Williams, p. 173; Ziegler, p. 291.</ref>。 不倫が公になるとすぐに、チャーチルはボールドウィンと国王に対し、議会と国民の意見が反映されるまで決定を先延ばしにするよう圧力をかけ始めた<ref>Williams, pp. 173–176.</ref>。チャーチルは[[タイムズ]]紙の編集者である{{仮リンク|ジェフリー・ドーソン|en|Geoffrey Dawson}}に宛てた私信の中で、時が経てば国王のシンプソンに対する熱が冷めるかも知れないとして、引き延ばしは有益であると示唆していた<ref>Williams, p. 177.</ref>。 おそらく危機の早期解決を望んだボールドウィンは、この引き延ばし要求を拒否した。国王の支持者たちは、ボールドウィン、ジェフリー・ドーソン、[[カンタベリー大主教]]の{{仮リンク|コスモ・ゴードン・ラング|en|Cosmo Gordon Lang}}の間の陰謀の存在を主張していた<ref>Evans, W. (1968), ''Journey to Harley Street'', London: David Rendel, p. 219.</ref>。王室の侍医である{{仮リンク|バートランド・ドーソン (初代ペンのドーソン子爵)|label=バートランド・ドーソン|en|Bertrand Dawson, 1st Viscount Dawson of Penn}}は、心臓病を理由に首相を引退させる計画に関与していた可能性があったが、彼は最終的に[[心電図]]を根拠として、ボールドウィンの心臓が健康である事を認めた<ref>Evans, p. 221.</ref>。
 
まとまりを欠いた国王の政治的な支持層は、チャーチル、[[オズワルド・モズレー]]、[[グレートブリテン共産党|共産主義者]]などの主要政党から疎外された政治家から成り立っていた<ref>Williams, pp. 179–181.</ref>。 元首相の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]も、シンプソンの事は嫌っていたものの国王を支持していた。しかし、彼は愛人の{{仮リンク|フランセス・ロイド・ジョージ (ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵夫人)|label=フランシス・スティーブンソン|en|Frances Stevenson}}と休暇で[[ジャマイカ]]に滞在していたため、この危機の中で積極的な役割を果たす事はなかった<ref>Williams, pp. 198–199.</ref>。12月初旬、国王支持者が、チャーチルを中心とした「国王党」に合流するという噂が流れた。しかし、運動を組織化するための努力が払われる事はなく、チャーチルにそのような運動を率いるつもりもなかった<ref>Williams, pp. 181–182.</ref>。とはいえ、国会議員たちが、国王の政治介入という事態に恐怖を感じている状況下では、この噂は国王とチャーチルにとって大きな痛手となった<ref>Williams, pp. 199–200.</ref>。
 
労働者階級の人々や元軍人は手紙や日記の中で一般的に国王への支持を、一方で中流階級や上流階級の人々のそれは憤激や嫌悪感を示す傾向が見られた<ref>例として Williams, pp. 138–144.</ref>。[[タイムズ]]、{{仮リンク|モーニング・ポスト|en|The Morning Post}}、{{仮リンク|デイリー・ヘラルド (イギリス)|label=デイリー・ヘラルド|en|Daily Herald (United Kingdom)}}、[[デイリー・テレグラフ]]などの{{仮リンク|ゴーマー・ベリー (初代ケムズリー子爵)|label=ケムズリー卿|en|Gomer Berry, 1st Viscount Kemsley}}によって所有されている新聞は結婚に反対の論陣をはった。一方、それぞれ[[マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵)|ビーヴァーブルック卿]]と[[ハロルド・ハームズワース (初代ロザミア子爵)|ロザミア卿]]が所有する[[デイリー・エクスプレス]]と[[デイリー・メール]]は、貴賤結婚を支持する傾向がみられた<ref>Beaverbrook, p. 68; Broad, p. 188; Ziegler, p. 308.</ref>。国王は、賛成派新聞の発行部数が250万部、反対派新聞は850万部であると見積もっていた<ref>Ziegler, p. 308; The Duke of Windsor, p. 373.</ref>。
 
12月3日、エドワードはボールドウィンと「緊張の中で」会談を行った<ref name=bbc/>。 チャーチルやビーヴァーブルックの後押しもあり、エドワードは[[英国放送協会|BBC]]の放送を通じて演説する事を提案した。提案された草稿の内容は、国王が「国民に向けて公の場で語る」という「古来の慣習」を呼び起こす物だった<ref name=bbc/>。聴衆に「私は、王太子時代から"[[プリンス・オブ・ウェールズの羽根|Ich Dien]]"をモットーとしている人物と同一であり、これからも引き続き私は仕えます。」と語りかける<ref name=bbc/>エドワードが提案した演説草稿は、シンプソンと貴賤結婚しても王位にとどまる事を望み、退位を余儀なくされた場合でも復位への望みを示した物であり、草稿のある個所で、エドワードは次のような案を提示した。
 
{{quotation|私もシンプソン夫人も、彼女が王妃になるべきだと主張した事はありません。私たちが望んでいたのは、結婚して幸福になる事、彼女に私の妻にふさわしい称号と尊厳が与えられる事でした。ようやく皆様を信頼する事ができたので、しばらくの間離れる事にしました。そうすれば、私が言った事について、落ち着いて静かに、しかし過度に遅れる事なく考える事ができるでしょう<ref>The Duke of Windsor, p. 361.</ref>。}}
 
ボールドウィンは、「多くの人に衝撃を与えるだろうし、憲政の原則に対する重大な侵害になる」として、この演説を阻止した<ref name=bbc>{{citation|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/2707489.stm|first=Dominic|last=Casciani|work=BBC News|title=King's abdication appeal blocked|date=30 January 2003|access-date=2 May 2010}}</ref>。 近代的な慣習では、国王は閣僚の助言や相談によってのみ行動が可能となる。エドワードは、政府に対する国民の支持を求めるにあたり、拘束力を伴う閣僚の助言に反対し、代わりに個人として行動する事を選択した。エドワードの閣僚たちは、エドワードがこの演説を提案する事によって、憲政上の慣習を軽視する態度を明確にして、国王の政治的中立性を脅かしたと考えた<ref>Beaverbrook, p. 71; Williams, p. 156.</ref>。