「サンチョ4世 (カスティーリャ王)」の版間の差分

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| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[マリア・デ・モリナ]]
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 配偶者4 =
| 子女 = [[#子女|後述]]
| 王家 = ボルゴーニャ家
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兄の死後、遺児で甥{{仮リンク|アルフォンソ・デ・ラ・セルダ|es|Alfonso de la Cerda|label=アルフォンソ}}、{{仮リンク|フェルナンド・デ・ラ・セルダ (1275-1322)|es|Fernando de la Cerda (1275-1322)|label=フェルナンド}}兄弟が王位継承者に挙がると、1282年に父と対立し、この争いに勝利して父を廃して自ら国王として即位する。これに対して父は宿敵であるヤアクーブと連合して反抗してきたが、サンチョ4世はこれを撃破して父をセビリアに幽閉した。そして[[1284年]]に父が死去し、甥達も退け名実共に国王となった。この間、ヤアクーブが何度か再上陸してスペイン南部を略奪して回ったが、既にカスティーリャはサンチョ4世の下で纏まり分裂する恐れは無くなった<ref name="ローマックス223"></ref><ref>西川、P157 - P158。</ref>。
 
1282年に大叔父モリナ公アルフォンソ(レオン王[[アルフォンソ9世 (レオン王)|アルフォンソ9世]]王子)の娘で従叔母に当たる[[マリア・デ・モリナ]]と結婚した。しかし両者が血縁のため[[教皇|ローマ教皇]]から許可を取れず、フランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]を仲介者として許可を取ろうとして失敗、使者としてフランスへ派遣されたバリャドリッド修道院長ゴメスは責任を取らされ投獄されている<ref>西川、P158 - P160。</ref>。
 
マリーン朝の上陸を防ぐため、[[1291年]]にサンチョ4世は遠征を行い、グラナダ王ムハンマド2世の援助を受け取り翌[[1292年]]に[[タリファ]]([[アンダルシア州]])をマリーン朝から奪い<ref>ローマックス、P223 - P224、西川、P160。</ref>、おじのドン・ペドロを捕らえた。戦後タリファをムハンマド2世に与える約束を破り自ら領有したため、グラナダとマリーン朝が再び手を結んでタリファを包囲したが、守備隊長アロンソ・ペレス・デ・グスマン([[メディナ=シドニア公]]家の先祖)が包囲を耐え抜きカスティーリャ領に留まったことで、マリーン朝の上陸地は[[アルヘシラス]]と[[ジブラルタル]]だけになった<ref>ローマックス、P224、西川、P160 - P161、P170。</ref>。[[1293年]]、[[アルカラ・デ・エナーレス]]に[[マドリード・コンプルテンセ大学]]の原型となる学術機関を創設した。
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== 子女 ==
王妃[[マリア・デ・モリナ]]との間に、以下の子女をもうけた。
* [[イサベル・デ・カスティーリャ (1283-1328)|イサベル]](1283年 - 1328年) - アラゴン王[[ハイメ2世 (アラゴン王)|ハイメ2世]]妃、後に離婚。[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[ジャン3世 (ブルターニュ公)|ジャン3世]]と再婚。
* [[フェルナンド4世 (カスティーリャ王)|フェルナンド4世]](1285年 - 1312年) - カスティーリャ王(1295年 - 1312年)