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== 生涯 ==
傍系から大ハーンに即位した泰定帝[[イェスン・テムル]]の長男に当たり、弟には[[パドマギャルポ]]、[[ソセ (太子)|ソセ]]、[[ヨンダン・ジャンボ]]らがいる。母の[[バブカン]]は長らく大ハーンの后妃を輩出してきた名門姻族[[コンギラト]]氏の出で、[[泰定 (元)|泰定]]元年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]([[1324年]][[4月14日]])に5歳で[[立太子]]された<ref>『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年三月]丙午、御大明殿、冊八八罕氏為皇后、皇子阿速吉八為皇太子」</ref><ref>{{Harvnb|ドーソン|1971|p=189}}</ref>。なお、イェスン・テムルは立太子の数日後に次男のパドマギャルポを[[晋王]]([[ジノン]]=モンゴル高原の統括者)に任じ、また甥の[[バラシリ]]に[[オルドス高原]]のチャガン・ノールへ出鎮するよう命じており、クビライ時代に皇太子[[チンキム]]・安西王[[マンガラ]]・北平王[[ノムガン]]が大元ウルスの「三大王国」をそれぞれ治める体制への回帰(チンキムの立場がアリギバ、マンガラの立場がバラシリ、ノムガンの立場がパドマギャルポにそれぞれ相当する)を目指していたのではないかと推測されている<ref>牛根2007,88頁</ref>。
 
[[致和]]元年[[7月 (旧暦)|7月]]([[1328年]][[8月]])、泰定帝が病により[[上都]]で崩御すると、泰定帝の寵臣であった[[中書省|中書]][[丞相|左丞相]]の[[ダウラト・シャー]]によって大ハーンに擁立され、[[9月 (旧暦)|9月]]に上都で即位した<ref>『元史』巻30泰定帝本紀2,「[致和元年]九月、倒剌沙立皇太子為皇帝、改元天順、詔天下」</ref>。
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しかし泰定帝の急死は、仁宗[[アユルバルワダ]]の治世から不遇をかこっていたことに対し不満を募らせていた武宗[[カイシャン]]派の軍閥たちの決起を促した<ref>{{Harvnb|杉山|1996|pp=205-207}}</ref>。[[8月 (旧暦)|8月]]、もう一つの都である[[大都]]に駐留していた[[キプチャク]]親衛軍の司令官[[エル・テムル]]は反乱を起こして大都の政府機関を占拠し、武宗の遺児の擁立を呼びかけた。ダウラト・シャーは梁王[[オンシャン]](天順帝の従兄)を[[同中書門下平章事|平章政事]]、中書右丞相の{{仮リンク|タシュ・テムル|zh|塔失帖木兒}}を軍の司令官としてエル・テムルとの交戦の準備を進めた<ref name="inosaki">{{Harvnb|井ノ崎|1960|p=460}}</ref>。
 
天順帝の即位と同じ9月、[[荊湖北道]]の[[荊州|江陵]]にいた懐王[[トク・テムル]](武宗の次男)が大都に迎え入れられ、天順帝に対抗して大ハーンを称した。天順帝を擁する上都側は反乱を押さえ込むために大都へと侵攻したが、迎え撃ったエル・テムルらの軍勢に敗北し、上都軍は潰走した<ref>『元史』巻31明宗本紀,「[戊辰]時倒剌沙在上都、立泰定皇帝子為皇帝、乃遣兵分道犯大都。而梁王王禅・右丞相答失鉄木児・御史大夫紐沢・太尉不花等、兵皆次于林、燕帖木児与其弟撒敦・子唐其勢等、帥師与戦、敗之。上都兵皆潰」</ref>。
 
10月になると[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]東部を領する斉王[[オルク・テムル (斉王)|オルク・テムル]]([[ジョチ・カサル]]の子孫)が大都側について上都を囲み、天順帝とダウラト・シャーは完全に孤立した。ダウラト・シャーら上都側の首脳は大都軍に投降し、処刑された。天順帝も混乱の最中に没したが、どのような最期を遂げたかは不明である<ref>『元史』巻31明宗本紀,「[戊辰]十月辛丑、斉王月魯帖木児・元帥不花帖木児以兵囲上都、倒剌沙乃奉皇帝宝出降、両京道路始通」</ref><ref name="inosaki"/><ref name="CMD197">{{Harvnb|ドーソン|1971|p=197}}</ref>。
 
泰定帝の没後に起こったこれら一連の大ハーン位争いは、トク・テムルの立てた元号をとって「[[天暦 (元)|天暦]]の内乱」と呼ばれる。天順帝の死を知った上都側の支持者たちはエル・テムルに降伏する<ref name="CMD197"/>が、天暦の内乱は終結を迎えず、トク・テムルとその兄の[[コシラ]]の間で帝位を巡る対立が続くこととなる。