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'''仮子'''(かし)もしくは'''義児'''(ぎじ)は、[[唐]]から[[五代十国時代]]にかけて現れた[[養子]]の形態の一つである。
 
== 概要 ==
地方の群雄や[[節度使]]・[[宦官]]などの有力者が自らの側近など親近にある個人もしくは集団と擬制的親子関係を結んだものである。
 
中国の礼制においては伝統的に「他姓不養」の原則があったが、乱世になるとこの原則が必ずしも遵守されなくなる。例えば、[[蜀漢]]の[[劉備]]が[[劉封|寇封]]を、[[後趙]]の[[石勒]]が[[石堪|田堪]]らを、同じく[[石虎]]が[[冉瞻|冉良]]を養子に迎えている。これらを本項目の仮子・羲児のルーツとはみなせないものの、先駆的な性格は有していた可能性はある<ref>小野響「後趙宗室考」『中国与城外』4(2020年)/改題所収:「後趙における宗室」『後趙史の研究』汲古書院(2020年12月) ISBN 978-4-7629-6061-1 P221-245.</ref>。
 
[[隋]]末から唐初の混乱期に見られ、その後一旦はみられなくなるものの、安史の乱の前後から再び盛んに行われるようになった。
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安史の乱で有名な[[安禄山]]はかつては幽州節度使である[[張守珪]]の仮子であり、後に自らが節度使になると[[張忠志]]ら側近数名を仮子として更に直属の部隊8,000名を仮子にしたと伝えられている(『[[新唐書]]』安禄山伝および李宝臣伝・『[[資治通鑑]]』)。また、[[前蜀]]を建国した[[王建 (前蜀)|王建]]は有力な宦官であった[[田令孜]]の仮子となった(姓名はそのまま)が後に仮父を殺害して勢力を奪い、自らも120名を仮子としてその多くに実子と同じ輩行である「宗」与えて改名させ、さらに建国後にはそのうちの何人かを王に封じている(『新唐書』田令孜伝・『資治通鑑』)。
 
もっとも、仮父の力が衰えたり死亡したりした場合には仮子の方から縁組を破棄する場合もあり、仮父である田令孜を自ら殺害した王建の例は特殊だとしても、安禄山の仮子となった張忠志が禄山の没すると唐に降伏して、禄山から与えられた安の姓(安忠志)を捨てて朝廷から与えられた李宝臣に改名している。また、[[朱友謙|朱簡]]という人物は[[後梁]]を建国した[[朱全忠]]の仮子となって「朱友謙」と改名したが、仮父の死後にその敵である[[後唐]]を建国した[[李存勗]]に寝返った後にその仮子となって「李継麟」と改名している。一方、仮父の側も仮子縁組は主従関係の強化を目的としたもので、自らの後継者はあくまでも自分の実子もしくは血縁のある養子を意図していたが、後継者よりも年長かつ有力な仮子がいる場合には自らの死後に後継者を脅かすことが想定された。そのため、仮孫を後継者の下につけて将来的にはその擬制的血縁関係を結ばせるなどの対応も取られる場合もあったが、李存勗が父の[[李克用]]の仮子であった[[李嗣源]]に取って代わられたように有効な対応策はなく、有力者本人の代はその権力を補完するシステムであった仮子の仕組みが、本人没後には後継者を脅かせてその世襲を阻害する要因にもなって、勢力の不安定を招くことにもなった。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* 栗原益男「唐五代の仮父子的結合の性格」(『史学雑誌』第62編第6号(1953年)、後に栗原『唐宋変革期の国家と社会』(汲古書院、2014年)に採録)
* 栗原益男「唐五代の仮父子的結合における姓名と年齢」(『東洋学報』第38巻第4号(1956年)、後に栗原『唐宋変革期の国家と社会』(汲古書院、2014年)に採録)
 
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