「姫島 (愛知県田原市)」の版間の差分

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== 概要 ==
田原市片浜地区の北およそ4 [[キロメートル|km]]にある同市唯一の島。周囲4 km弱、標高62.1 [[メートル|m]]の小山で、東西に長い楕円形をしている。島の山頂には本島唯一の三等[[三角点]](点名が「姫島」、標高62.07m)が設置されている<ref>{{Cite web |url=http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/ |title=基準点成果等閲覧サービス |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2012-09-03}}</ref>。[[蔵王山 (愛知県)|蔵王山]]や[[衣笠山 (愛知県)|衣笠山]]などの「田原山脈」と同系で、海岸は岩石で覆われ、麓から頂上まで笹や小松が茂る。半島の笠山(78.9 m)と同じ内部冷却型の火山で、[[火成岩]]の[[斑れい岩|斑糲岩]]や[[蛇紋岩]]を見ることができる。辺りでは[[アサリ]]や[[モズク]]が採れる。
 
古くから[[倭姫命]]の伝説があり、古墳が一基存ずる。
古くから[[倭姫命]]の伝説があり、古墳が一基存ずる。[[江戸時代]]の[[寛文]]10年([[1670年]])から[[享保]]9年([[1724年]])まで、[[田原藩]]により馬の放牧が行われた。[[明治]]以前は「飛馬島」(読み同じ)と呼ばれ、寛文10年(1670年)の藩日記「万留書」に初めてその名が見える。「三河雑抄」には「姫嶋─前芝ヲ乗出シテ海上二里余ニシテ左ノ方ニ見ユ、此島ニ野馬有ト云」とあり、「三河国名所図絵」にも「飛馬島 波瀬村より一里許海上に有。統叢考に云往昔右大将頼朝卿宝飯郡丹野村御堂山に馬を奉納あり。其馬出て引馬の若草をはむ。夫より引馬を御馬て号す。彼馬蒼海を游きて南方の島に至る故に其辺を飛馬島と号くと見ゆ」とある。[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])の藩日記「万留帳」には、放牧駒は牡馬6頭、牝馬1島と記されている。
 
古くから[[倭姫命]]の伝説があり、古墳が一基存ずる。[[江戸時代]]の[[寛文]]10年([[1670年]])から[[享保]]9年([[1724年]])まで、[[田原藩]]により馬の放牧が行われた。[[明治]]以前は「飛馬島」(読み同じ)と呼ばれ、寛文10年(1670年)の藩日記「万留書」に初めてその名が見える。「三河雑抄」には「姫嶋─前芝ヲ乗出シテ海上二里余ニシテ左ノ方ニ見ユ、此島ニ野馬有ト云」とあり、「三河国名所図絵」にも「飛馬島 波瀬村より一里許海上に有。統叢考に云往昔右大将頼朝卿宝飯郡丹野村御堂山に馬を奉納あり。其馬出て引馬の若草をはむ。夫より引馬を御馬て号す。彼馬蒼海を游きて南方の島に至る故に其辺を飛馬島と号くと見ゆ」とある。[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])の藩日記「万留帳」には、放牧駒は牡馬6頭、牝馬1島と記されている。江戸時代の『田原城主考』では「飛馬嶋」と記され[[アサリ]]や[[モズク]]の産地としている<ref name="museum">{{Cite web |date= |url=https://www.taharamuseum.gr.jp/info/hic/pdf/hic_126.pdf |title=歴史探訪クラブ |format=PDF |publisher= 田原市|accessdate=2021-09-22}}</ref>。江戸時代には[[田原藩]]により馬の放牧が行われていた<ref name="museum" />
 
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