「王黼」の版間の差分

 
[[崇寧]]年間に[[進士]]に及第した。立派な美少年の上に口達者であり、[[元符]]3年([[1100年]])に[[蔡京]]の宰相復帰を助けて、蔡京の抜擢で校書郎から御史中丞に上った。蔡京が引退すると、その後を継いで宰相となった。[[徽宗]]に迎合して多くの珍宝や奇品を献上し、信任を受けた。一方、私財の調達に狂奔、公金の横領の上に、婦女の奪取など横暴を極めた。
 
[[宣和]]7年12月23日(西暦で1126年1月25日)、[[金 (王朝)|金]]軍の侵攻に慌てた徽宗は、長男の[[欽宗]]に譲位した。王黼は、以前に鄆王[[趙楷]](徽宗の次男)を太子に擁立しようと画策したことが露見して、欽宗により免職された。金軍の来襲に、王黼は財産を持って先に逃亡したが、[[杞県|雍丘]]で捕らえられた。直後に、蔡京・[[童貫]]・{{仮リンク|梁師成|zh|梁师成}}・{{仮リンク|朱勔|zh|朱勔}}・{{仮リンク|李邦彦 (宋)|label=李邦彦|zh|李邦彦}}と共に「'''{{仮リンク|六賊|zh|六賊}}'''」とされ、それぞれ遠方へ流罪に処せられた。まもなく欽宗の命により、開封府尹の聶山の手で斬首された。
 
== 脚注 ==