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万策尽きた童貫は、自力での燕京攻略は不可能であると判断し、[[阿骨打]]に救援を依頼した。阿骨打は北方より三路から燕京へ攻撃を掛け、耶律大石は居庸関で抵抗を試みたものの、敗れて金軍に捕えられた。阿骨打は燕京の人や物資を略奪した上で宋軍に明け渡し、多額の歳幣を宋に要求した。
 
その後、[[1123年]]に金に攻め込まれた際は[[太原]]に駐屯していたが、「すみやかに山西と河北の地を割譲し、黄河を境界に宋の保全を図るがよかろう」と金に脅迫され、再び部下を見捨てて敵前逃亡する失態を犯した。[[欽宗]]即位後、[[開封]]の[[太学|太学生]][[{{仮リンク|陳東]]|zh|陳東 (宋朝)}}らに、'''六賊'''と弾劾され、その責任を糾弾されて[[海南島]]へ流される途中に死罪となり、特命を受けた[[御史]]{{仮リンク|張澂|zh|張澂 (宋朝)}}の手で斬首された。童貫の首は鉄のように固く、門の敷居を断頭台代わりにしてやっと切り落とすことが出来たと伝えられている。
 
== 参考・引用文献 ==