「自由民権運動」の版間の差分

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=== 運動内の分裂 ===
明治十四年の政変によって、自由民権運動に好意的と見られてきた大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功して、結果的にはより強硬な運動弾圧策に乗り出す環境を整える事となった。また伊藤らは民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。後藤象二郎を通じて自由党総理板垣退助に洋行を勧め、板垣がこれに応じると、民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出。批判した[[馬場辰猪]]・[[大石正巳]]・[[末広鉄腸]]らを板垣が逆に自由党から追放するという措置に出たため、[[田口卯吉]]・[[中江兆民]]らまでも自由党から去ることとなった。また改進党系の[[郵便報知新聞]]なども自由党と[[三井財閥|三井]]との癒着を含め、板垣を批判。板垣・後藤の出国後には自由党系の[[自由新聞]]が逆に改進党と[[三菱財閥|三菱]]との関係を批判するなど泥仕合の様相を呈した<ref>「詳説 日本史研究」:353ページ、山川出版社</ref>
 
===激化事件と運動の衰退===