「自由の鐘 (行進曲)」の版間の差分

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== 概説 ==
スーザは『悪魔の代理人』(''Devil's Deputy'')というオペレッタのために行進曲を書いていたが、契約が成立せずに中断された。その後スーザの楽団の管理者のひとりであるジョージ・フレデリック・ヒントンとともに[[シカゴ]]で「アメリカ」という題の[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]の出し物を見た時に背景に[[自由の鐘]]が描かれていたことから、ヒントンは新しい曲の名前を『自由の鐘』にすることを勧めた。偶然にも翌日スーザが妻から受けとった手紙に、[[フィラデルフィア]]で自由の鐘のパレードに息子が行進したことが記されていたため、曲名を『自由の鐘』に決めた<ref>{{citation|url=https://www.marineband.marines.mil/Audio-Resources/The-Complete-Marches-of-John-Philip-Sousa/The-Liberty-Bell-March/|author=Paul E. Bierley|title=The Works of John Philip Sousa|location=Westerville, Ohio|publisher=Integrity Press|year=1984|page=43|isbn=0918048044}}</ref>。
 
この頃、スーザは[[印税]]を渡さない出版社のハリー・コールマンと手を切り、[[シンシナティ]]のジョン・チャーチ・カンパニーから出版するようになった。『自由の鐘』はジョン・チャーチから出版された最初のスーザの行進曲だった。『[[雷神 (行進曲)|雷神]]』、『忠誠』、『[[ワシントン・ポスト (行進曲)|ワシントン・ポスト]]』が各35ドルしか得られなかったのに対して、『自由の鐘』は7年足らずで4万ドルを越える収入をスーザにもたらした<ref>{{citation|author=Paul E. Bierley|title=John Philip Sousa: American Phenomenon|edition=revised|year=2001|origyear=1973|publisher=Warner Bros. Publications|isbn=0757906125|pages=59-61}}</ref>。