「フランコ・アルファーノ」の版間の差分

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==経歴==
[[ナポリ]]近郊のポジリポ (Posillipo) で生まれ、[[ナポリ]]の音楽学校で専門教育を受けた後、[[1895年]]より[[フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ|ライプツィヒ音楽院]]に留学し、[[ザーロモン・ヤーダスゾーン]]に作曲を師事。翌年から[[ベルリン]]などでピアニストとして活動を開始するかたわら、[[オペラ]]の作曲にも着手するが、不運続きであった。[[1899年]]から[[パリ]]に進出し、バレエ団「フォリ・ベルジェール」のために2つのバレエ曲を書いて好評を呼ぶ。また、同時期に[[ロシア]]にピアニストとして演奏旅行に向かい、この間、[[レフ・トルストイ]]原作オペラ『[[復活 (小説)|復活]]』を原作とするオペラを構想する。彼のオペラ第二作『{{仮リンク|復活 (オペラ)|label=復活|en|Risurrezione}}』([[1904年]]に『復活』の[[トリノ]]初演)はオペラ作曲家としてはじめて大きな成功となった<ref>水谷彰良P253</ref>。『復活』は作曲家の存命中に1000回以上の上演を記録した<ref>岸純信P111</ref>。以降、終の棲家を[[サン・レモ]]に構えた。
『{{仮リンク|サクンターラ|en|Sakùntala}}』(『サクンターラの伝説』 [[1921年]]、''La leggenda di Sakuntala''を[[1952年]]に改訂)は[[カーリダーサ]]の[[サンスクリット]]文学を原作に自ら台本を書き、[[散文]]で書かれた最初期のイタリア・オペラとなった<ref>水谷彰良『新イタリア・オペラ史』P253</ref>。この作品はアルファーノの最も重要な舞台作品であることは議論の余地がなく、[[クロード・ドビュッシー]]の影響が見られる<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』(第1巻) P348</ref>。
 
未完の『[[トゥーランドット]]』の補筆の経緯については、しばしば[[ジャコモ・プッチーニ]]と親しかった、友人であった、弟子だったという理由が語られてきた。しかし、「アルファーノはプッチーニの決して単なる徒弟ではなかった」のである<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』(第1巻) P348</ref>。「プッチーニは偉大なる先達者であっても、師と仰いだことは一度もない」のである<ref>岸純信P110</ref>。岸純信によれば実情は「[[1925年]]の7月にプッチーニの子息であるアントニオがサン・レモのアルファーノ宅を訪問し、『[[トゥーランドット]]』の補作を依頼した。音楽学者{{仮リンク|コンラッド・ドライデン|en|Konrad Dryden}}によれば、アルファーノその依頼に困惑したものの、押し切られる形で同年[[8月25日]]に契約した。[[1926年]]の1月までにオーケストレーションを完成させた。そして、世界初演にこぎつけたものの、[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]が長過ぎると言う理由で、補筆部分を大幅にカットしてしまう<ref>岸純信P110</ref>{{efn|しかも初日には演奏されず、翌日に初めて演奏された<ref>河野典子P536</ref>。}}。総譜はアルファーノの結末をつけて出版されたが、第二版ではその部分が短縮され、それが今日通常の公演に使用されている<ref>スタンリー・セイディ、『新グローヴ オペラ事典』P439</ref>{{efn|例外もある。}}。アルファーノが選ばれた理由はプッチーニとアルファーノが2人とも[[リコルディ]]社と契約しており<ref>水谷彰良 (著)、『消えたオペラ譜』P198</ref>{{efn|ヴェリズモの作曲家たちは主にライバルのソンゾーニョ社と懇意にしていた}}、『復活』の成功でリコルディ社から彼が評価されていたためである。この補筆はしばしば「アルファーノの音楽が弱い」と評価されるが<ref>岸純信P111</ref>{{efn|『新グローヴ オペラ事典』によれば「全く知らない女に、しかも奴隷女が自分のために自害した直後で、むしろそれを嫌うのが当然である相手に求愛し続ける男は、どうみても我々の共感を得られないだろう。-中略-プッチーニでも幕を締めくくるに相応しい変容の響きを見出し得なかったろう」と言う見解もある<ref>スタンリー・セイディ、『新グローヴ オペラ事典』P439</ref>。 }}、難しい仕事であったと見られる。
[[ジャコモ・プッチーニ]]と親しかったことから、その未完の歌劇『[[トゥーランドット]]』を補作し、完成させた。交響曲や室内楽やピアノ曲などの作品も残している。
 
アルファーノは交響曲や室内楽やピアノ曲などの作品も残している。
 
[[ボローニャ]]音楽院作曲科教授([[1916年]] - [[1922年]])および院長([[1918年]] - [[1922年]])、トリノ音楽院院長([[1923年]] - [[1939年]])、[[ペーザロ]]音楽院院長([[1946年]] - [[1950年]])を歴任。サン・レモにて没。
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== 作品 ==
=== オペラ ===
* ミランダ』([[1896年]]、 ''Miranda''
* [[エンスキールの泉]] 』(1898年、''La fonte di Enschir''
* {{仮リンク|シラノ・ド・ベルジュラック(オペラ)|label=シラノ・ド・ベルジュラック|en|Cyrano de Bergerac (Alfano)}} ''Cyrano de Bergerac''
* 『ザラウの王子』([[1909年]]、'' Il principe di Zilah''
* [[医師アントニオ]] ''Il dottor Antonio''
* [[騎士たちと美女』([[1910年]] ''I cavalieri e la bella''(未完成))
* [[エンスキールの泉]] ''La fonte di Enschir''
* [[ドン・ジョヴァン]]の影]]』 ([[1914年]]、''L'ombra di Don Giovanni''
* サクーンタラ([[シャクンタラー (戯曲)|シャクンタラー]]伝説) ''La leggenda di Sakuntala''
*『{{仮リンク|サクンターラ|en|Sakùntala}}』(『シャクンタラー伝説』 [[1921年]]、''La leggenda di Sakuntala''、[[1952年]]改訂)
* [[聖女皇后]] ''Madonna Imperia''
 
* [[ドン・ファン]]の影 ''L'ombra di Don Giovanni''
* [[聖女皇后]] 』([[1927年]]、''Madonna Imperia''
* [[インドの殿様]] '' Il principe di Zilah''
* [[『{{仮リンク|復活 (小説オペラ)|label=復活|en|Risurrezione}}』([[1904年]] ''Risurrezione''
* [[最後の英国貴族』([[1930年]] ''L'ultimo Lord''
* {{仮リンク|『[[シラノ・ド・ベルジュラック(オペラ) (アルファーノ)|label=シラノ・ド・ベルジュラック|en|Cyrano de Bergerac (Alfano)}} ]]』([[1936年]]、''Cyrano de Bergerac''
* [[騎士たちと美女]] ''I cavalieri e la bella''(未完成)
* 『{{仮リンク|医師アントニオ|en|Il dottor Antonio (opera)}}』([[1949年]]、''Il dottor Antonio'')
 
=== バレエ ===
* ナポリ ''Napoli''
* ロレンツァ ''Lorenza''
* [[ヴェスヴィオ火山]] ''Vesuvius''
 
== 脚注 ==
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<references />
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*ジョン・ウォラック、ユアン・ウエスト(編集)、『オックスフォードオペラ大事典』、大崎滋生、[[西原稔]](翻訳)、[[平凡社]](ISBN 978-4582125214)
*『[[ニューグローヴ世界音楽大事典]]』(第1巻) 、[[講談社]] (ISBN 978-4061916210)
*岸純信(著)、『簡略オペラ史』 [[八千代出版]](ISBN 978-4842917689)
*[[スタンリー・セイディ]]編、『新グローヴ オペラ事典』[[中矢一義]]・[[土田英三郎]] 日本語監修 [[白水社]](ISBN 978-4560026632)
*河野典子(著)、『イタリア・オペラ・ガイド』 [[星雲社]] (ISBN 978-4434230516)
*『ラルース世界音楽事典』[[福武書店]]
*水谷彰良 (著)、『新イタリア・オペラ史』[[音楽之友社]](ISBN 978-4276110410)
*水谷彰良 (著)、『消えたオペラ譜』―楽譜出版にみるオペラ400年史―  [[音楽之友社]](ISBN 978-4276121805)
 
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