→歴史
(→歴史) |
|||
== 歴史 ==
[[サッカー日本代表|日本代表]]コーチを務めた[[デットマール・クラマー]]の残した「リーグ戦形式にしなければ日本の強化には
社会人クラブの強豪・[[古河電気工業サッカー部|古河電工]]、[[三菱重工業サッカー部|三菱重工]]、[[日立製作所本社サッカー部|日立]]を中心とする8
第1回大会は[[1965年]][[6月6日]]に開幕し[[東洋工業サッカー部|東洋工業]]が初代王者に輝いた。最終節で優勝を決めた東洋工業監督の[[下村幸男]]が胴上げされたのは、[[広島大学附属中学校・高等学校|広島大学附属高校]]のグラウンドであった。
[[1960年代]]後半から[[1970年代]]前半にかけては、[[1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技]]での銅メダル獲得もあり注目を集めた。その中でも[[釜本邦茂]]を擁する[[ヤンマーディーゼルサッカー部|ヤンマーディーゼル]]と、[[杉山隆一]]を擁する[[三菱重工業サッカー部|三菱重工]]は実力と人気を二分した。しかしその後の日本代表の成績不振もあり、1970年代中盤以降は観客動員の低迷が続き冬の時代と呼ばれた。
[[1980年代]]に入ると[[読売サッカークラブ|読売クラブ]]や[[日産自動車サッカー部|日産自動車]]といったプロ化を視野に入れた
この背後ではプロ化へ向けての動きが着々と進み、1989年にプロリーグ検討委員会が発足。1991年11月に社団法人[[日本プロサッカーリーグ (法人)|日本プロサッカーリーグ]]が正式に発足すると1992年3月29日の最終節を持ってJSLは廃止され、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)と下部組織の[[ジャパンフットボールリーグ]] (JFL) とへ発展解消されることとなった。
== 概要 ==
日本サッカーのレベルの向上、特に試合機会の増大とパターン化により全体のレベルを上げて行くことが目的であった。アマチュア競技で全国レベルのリーグ戦を行ったのは日本ではサッカーが初めてである。
それ以前は年に幾度か数週間程度の
=== 機構 ===
[[日本サッカー協会]] (JFA) と独立した、独自の事務局を持ち運営していた。当初は[[東京都]][[渋谷区]]の[[岸記念体育会館]]内にあるJFAのオフィススペースに間借りしていたが、後に同[[千代田区]]小川町に単独の事務所を確保できるようになった。
運営スタッフは事務員が数名程度で常任のスタッフも数名程度、ほかに各
現在のJリーグチェアマンにあたる役職としてJSL総務主事があった。ただし全
=== 効果 ===
==== 施設面の充実 ====
地方の
==== 企業アマの確立 ====
このような体制を'''企業アマ'''といい、サッカーに関わらず日本のスポーツ界では広く見られた。旧共産圏や東欧で見られた「[[ステート・アマ]]」の企業版であるが、企業アマは日本独自のものである。
特に現役である限り、日本代表の選手は待遇がかなり良かった
==== アマチュアの形骸化 ====
さらに企業アマが進んで、試合の結果に対して選手に報酬を渡す
これによって、当初JSLが目指した「アマチュアによるリーグ」は全く形骸化してしまった。
こうして選手の実質的な「プロ化」は進んだが、実力・運営ともにアマチュアレベルで、当時の[[ラグビー]]などと比べても人気も高いとはいえなかった。またいくつかの問題がアマチュアレベルでは解決できないとして、プロリーグへの待望論が生まれてくる。
プロリーグ構想は「読売」や「日産」「全日空」「ヤマハ」といった後発
=== JSLでは解決されなかった問題 ===
* 観客動員
* 国内サッカーの知名度
* スタジアムの充実。特に関東の
* 日本サッカーのレベルアップ
* 地方
* 企業の業績に左右される体質
* 現役を引退した選手のその後の職の確保(コーチ業、解説者等)
JSLに参加したクラブを挙げる。途中で名称が変更になっているものはその旨を記す。(「株式会社」表記は省略)
=== 創設時の8クラブ(オリジナル8) ===
* [[古河電気工業サッカー部]](1991年から東日本JR古河サッカークラブ)<ref group="注">古河電工は、創設時の8クラブで唯一JSL2部への降格経験がない</ref>(のちの[[ジェフユナイテッド市原・千葉]])
* [[日立製作所本社サッカー部]](1971年から日立製作所サッカー部)(のちの[[柏レイソル]])
* [[富士通サッカー部]](のちの[[川崎フロンターレ]])
* [[読売サッカークラブ]](のちの[[東京ヴェルディ1969]])
* [[日産自動車サッカー部]](のちの横浜マリノス)([[横浜フリューゲルス]]と合併して1999年から[[横浜F・マリノス]])
* [[ヤマハ発動機サッカー部]](のちの[[ジュビロ磐田]])
* [[本田技研工業フットボールクラブ|本田技研工業サッカー部]]
|}
* 降格チームは次のシーズンからJSL2部(JSL2部設立以前は各地域リーグ)
* 昇格チームは次のシーズンからJSL1部
* 第1回から第8回までは下位2チームが全国社会人大会上位2チームと入れ替え戦を行なう
* 第9回はチーム数増加のため降格なし
* 第20回はチーム数増加のため降格なし
* 第21回以降は下位2チームが自動降格
* 第21回から従来の春秋シーズンから秋春シーズン
* 第22回から大会名称のシーズン表記を「開幕年-閉幕年」
=== クラブ別優勝回数 ===
|}
* 1972年のJSL2部スタート時の参加
** 読売サッカークラブ
** 富士通サッカー部
** 大日本電線サッカー部
** 電電近畿サッカー部
* 優勝クラブ、準優勝クラブの項に補足のあるのは次のシーズンからJSL1部
* 降格クラブは次のシーズンから[[地域リーグ (サッカー)|地域リーグ]]
* 昇格クラブは次のシーズンからJSL2部
* JSL1部からの降格チームはJSL1部リーグの表(上記)を参照
* 第6回までは全国社会人サッカー選手権大会上位2チームとJSL2部下位2チームで入れ替え戦を行なう
* 第7回から第12回までは全国地域リーグ決勝大会上位2チームとJSL2部下位2チームで入れ替え戦を行なう
* 第13回、第14回は全国地域リーグ決勝大会の決勝ラウンド進出4チームがJSL2部
* 第15回からJSL1部同様の秋春シーズン
* 第15回以降は全国地域リーグ決勝大会上位2チームが自動昇格、JSL2部下位2チームが自動降格
* 第15回から再参加のコスモ大協はかつての大協石油。翌シーズンから社名変更によりコスモ石油
* 第16回から再参加のNTT関西はかつての電電近畿
* 第17回から大会名称のシーズン表記を、JSL1部同様「開幕年-閉幕年」
=== クラブ別優勝回数 ===
* 最優秀選手賞([[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]]提供)-第24回より
* 報知・年間優秀11人賞([[報知新聞社]]提供)-(ベスト11)第2回より
* クリーン&エキサイティング賞([[カルビー]]提供)-最優秀賞1名を含む優秀賞各
* 100(200)試合出場選手-100試合ごと(272試合出場の[[永井良和]]以下17名が200試合出場)
* 100(200)得点-100得点ごと(100得点以上の条件を満たしたのは[[釜本邦茂]]のみ、200得点表彰も受賞)
== キャンペーン・ポスター ==
日本リーグ20周年を記念して、それまでの感謝と新時代の到来をアピールするために[[博報堂]]が制作した。以後、その年のサッカーを象徴するまたはサッカー界へのメッセージが込められたポスターが発表された。
* 第20回(1984)「格闘技宣言。」(モデル:釜本邦茂)
* 第21回(1985)「見せてくれ、蹴闘。」(モデル:[[明石家さんま]])
* 第22回(1986/87)「サラリーマンサッカーの時代は終った。」(モデル:[[奥寺康彦]]=古河)
* 第23回(1987/88)「ことしは、牛若サッカーです。」(モデル:[[武田修宏]]=読売)
* 第24回(1988/89)「仏の顔も、二十三回までだ。」(モデル:釜本邦茂)
* 第25回(1989/90)「クリーン&エキサイティング」(モデル:なし=試合写真)
* 第26回(1990/91)「ペレストライカー」(モデル:デビッド・ロイド・オースチン、[[ミハイル・ゴルバチョフ|ミハエル・ゴルバチョフ]]のそっくりさん)
* 第27回(1991/91)「ガンバレ!!ペレストライカー」(モデル:アーチー・ケッセル、[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ジョージ・ブッシュ]]のそっくりさん)
== 放送 ==
|