「モンゴル帝国帝位継承戦争」の版間の差分
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'''モンゴル帝国帝位継承戦争'''(モンゴルていこくていいけいしょうせんそう、[[1260年]] - [[1264年]])は、[[モンゴル帝国]]の第4代[[ハーン#モンゴル帝国のハーン|
古来「'''アリクブケの乱'''」の呼ばれてきたモンゴル帝国の内戦を、[[歴史理論学]]の立場から言い換えた現代的表現である。『[[集史]]』を始めとする[[ペルシア]]方面で書かれた多くの史書がアリクブケを
== 背景 ==
[[1251年]]に即位した
しかしこのうち、漠南漢地大総督に任命されたクビライは南宋を侵攻するにあたって、正面攻撃による短期決戦を避け、[[雲南・大理遠征]]を行うなど長期戦の構えを明らかにすると、皇帝モンケはこれに不満を持ち、一時クビライを更迭するなどし、自ら南宋侵攻の指揮を執ることにした。
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モンケが死去した際、後継者候補は大きく分けてモンケの弟たち(クビライ、[[フレグ]]、[[アリクブケ]]等)とモンケの遺児(バルト、アスタイ、シリギ等)の2群があったが、このうちモンケの諸子は若すぎるため除外され、またフレグも当時遠く[[イラン]]の地で遠征を行っており、帝位争奪に参加しようと思っても間に合わないのは明白であり、除外された。結局最有力候補はクビライとアリクブケに絞られるが、正当性([[遊牧民]]の[[末子相続]]の風習)からいっても、立ち位置(当時アリクブケは帝国の本拠地たる[[モンゴル高原]]にあり、クビライは[[中国]]に遠征中だった)からいってもアリクブケがかなり優勢だった。その上、クビライは生前のモンケと南宋侵攻の方針で対立しており、モンケの旧臣、遺児たちもこぞってアリクブケを支持しており、クビライは圧倒的に不利な状況にあった。
しかし多くの者がクビライの性急な北還を予想している中で、クビライはあえて南進を続け、鄂州を攻め始めた([[モンゴル・南宋戦争|鄂州の役]])。これには急いで北還することで配下の軍、特に[[漢人]]部隊が離散することを防ぐため、そしてあえて南宋遠征軍全体の殿軍を務める形をとることで、モンケの死により散り散りになった諸将を味方に引き入れるという目的があった。結果的にこの狙いは見事に的中し、遠征途上にあったモンゴル軍の諸将は続々とクビライの下に結集し、特に[[東方三王家]]の軍を率いる[[タガチャル]]がクビライの陣営に入ったことで、日和見を決め込んでいた多くの軍団もクビライ軍に合流した。クビライは、金蓮川([[開平]])の[[チャブイ]]からの密使から、金蓮川の[[アラムダール]](阿藍答児)と[[燕京]]の[[ドルジ (モンケ家の寵臣)|ドルジ]](脱里赤)が民兵の徴集を開始しており、至急北還するよう催促された。ここに至ってようやくクビライは全軍に北還を命じた。また、敵中で孤立しかかっていたものの、クビライの南下によって助かった[[ウリヤンカダイ]]軍も途中で参加し、[[1260年]]、クビライは本拠地、金蓮川で[[クリルタイ]]を開き、皇帝(
こうして、帝国始まって以来初めて
追い詰められたアリクブケは、チャガタイ家の本拠地である[[イリ渓谷]]を攻めて占領した。ここでアリクブケは頽勢挽回を図るはずであったが、捕虜にしたチャガタイ家の人間を殺してしまうという致命的なミスを犯してしまう。もともとモンゴル軍は敵に対しては容赦がなかったが、「モンゴル」と呼ばれる帝国支配層に組み込まれた集団の成員が同じ「モンゴル」成員を殺すということはほとんどなく、それによって強い結束を保っていた。この処置に部下たちの多くはアリクブケを見限り、また明らかに劣勢なアリクブケを救おうという勢力はなく、アリクブケは孤立無援に陥った。
[[1263年]]、イリ渓谷で飢饉が起こると、アリクブケ軍は完全に解体し、翌[[1264年]]にアリクブケはクビライに降伏、足かけ4年にわたる帝位(
== 関連項目 ==
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