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'''コデン'''('''Köden''', 生没年不詳)は、[[モンゴル帝国]]の王族。漢字表記は闊端太子、『[[集史]]』などのペルシア語表記では كوتان Kūtān 。名はクタン、ゴデン、ゴダンなどとも書かれる。
第2代[[ハーン|
オゴデイが
コデンの在世中、その支配圏は甘粛のみならず東の[[陝西省|陝西]]、南の[[チベット]]にまで及んだ。[[1239年]]にはコデン率いるモンゴル軍は[[カム (チベット)|カム地方]]からチベットに侵攻し、中央チベットでは[[仏教]]寺院を焼くなど猛威をふるった。これに関連して、当時のチベットで豪族と結びついて各地に割拠した[[仏教]]教団のひとつ、[[サキャ派]]の教主[[サキャ・パンディタ]]が新興のモンゴル帝国と繋がりを得るため、[[1247年]]にコデンの本拠地涼州に赴いてコデンと会見したことは、現代まで続くモンゴル人と[[チベット仏教]]の深い関係の端緒として非常に有名な事件である。
コデンの正確な没年は不明だが、サキャ・パンディタとの会見から間もなく、兄で第3代
== コデン家の盛衰 ==
コデンの死後、彼の子孫たちは自己の領民がトルイの遺領から分与された縁もあってトルイ家との間に密接な関係を持ち、第4代
しかしモンケは漠南漢地総督として[[ゴビ砂漠]]以南の支配を委ねた弟の[[クビライ]]に京兆(現在の[[西安]])を中心とする陝西地方を与え、コデン家は河西の所領を引き続き安堵されたが、以後はこのクビライの影響下に置かれることになる。モンケの即位に協力したコデンの子モンゲドゥは、[[1253年]]に行われたクビライの[[雲南・大理遠征]]に参加している。[[1259年]]のモンケの死に始まる[[モンゴル帝国帝位継承戦争|ハーン位継承争い]]では、モンゲドゥの兄弟ジビク・テムルがクビライの側につき、モンケ兄弟の末弟[[アリクブケ]]を支持する勢力と甘粛地方を舞台に激しい戦いを繰り広げている。
クビライが
その後もコデン家は、当主イェス・エブゲンが[[南宋]]旧領に保持する所領にちなんで[[1324年]]に荊王の封号を与えられるなど、[[皇帝]]の一族として最高の待遇を受けている。しかしコデン家嫡流当主であるコデン・アカの座は[[トゴン・テムル]]治下の[[1343年]]までに不在となり、甘粛地方東部に遊牧するコデン家領民の統治権は
== 脚注 ==
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