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'''バヤン'''('''Bayan''', ? - [[1340年]])は、[[元 (王朝)|元朝]]後期の将軍。漢字表記は伯顔。アスト人親衛軍を率いる軍閥の長で、[[中国]]を支配した最後の[[モンゴル帝国]][[ハーン|大ハーカアン]]となった[[トゴン・テムル]](順帝)の治世初期に専権を振るった。
 
出自である[[メルキト]]部は、元来[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の[[モンゴル高原]]統一に抵抗して滅ぼされた部族([[ウルス]])であったが、バヤンの曽祖父は大ハーカアンの本営([[オルド]])に従士として仕えており、モンゴルの譜代部将の家柄に属している。祖父は[[モンケ]]の南宋遠征に従軍し、父は[[クビライ]]の皇太子[[チンキム]]の家に仕えた。バヤンも若くしてモンゴル軍人となり、[[アルタイ山脈]]方面の前線に派遣される懐寧王[[カイシャン]]に付属され、[[カイドゥ]]との戦いで戦功をあげて「バートル」(勇者)の称号を与えられた。
 
[[1307年]]、大ハーカアンの[[テムル]]が崩ずると政変が起こり、モンゴル高原の全遊牧民の軍団を後ろ盾とするカイシャンが勝利した。カイシャンのハーカアン即位により、カイシャンの部下であったバヤンも中央政府の高官である吏部尚書に任命され、カイシャン政権の有力者に列した。[[1309年]]には宰相格の尚書平章政事にすすめられるとともに、アスト人親衛軍の指揮官(阿速親軍都指揮使)に任命される。アスト人は[[バトゥ]]の征西のとき征服された北[[カフカス]]のイラン系民族で現在の[[オセット人]]の先祖であり、バヤンが指揮を委ねられたアスト人親衛軍は、アスト征服の折りにモンゴル帝国に降伏したアスト人兵士からなるカイシャン子飼いの精鋭部隊であった。
 
しかし、[[1311年]]にカイシャンが急死を遂げ弟の[[アユルバルワダ]]が即位すると、カイシャン政権の中核だった[[尚書省]]は解体され、カイシャン・アユルバルワダ兄弟の母である皇太后[[ダギ]]の息のかかった将軍が取り立てられた。尚書省のメンバーだったバヤンのアスト人軍閥もカイシャン派として左遷され、中央から遠く離れた南方の地方官に転出する。[[1323年]]、晋王[[イェスン・テムル]]がハーカアンに即位すると、モンゴル高原から自らの子飼いの部将を引き連れてきたイェスン・テムルによってダギ派に属する有力者が一掃されたため、カイシャン派の残党であるバヤンの待遇も和らいで、[[1326年]]に中央に近い[[河南省|河南]]行省の平章政事に任ぜられた。
 
[[1328年]]、イェスン・テムルが上都で急死すると、再び大ハーカアンの座を巡って政変が起こり、大都に駐留していたカイシャン恩顧の[[キプチャク|キプチャク人]]親衛軍の将軍[[エル・テムル]]が決起を企てて[[江陵県|江陵]]にいたカイシャンの遺児[[トク・テムル]]を迎えるための使者を送り出した。この使者が河南を通過する際にバヤンは計画を聞きつけ、エル・テムルの決起に協力、トク・テムルを河南に迎えてともに大都に向かった。こうしてトク・テムルがハーカアンに即位すると、朝廷ではハーカアンを擁立したエル・テムルのキプチャク人軍閥、バヤンのアスト人軍閥ら非モンゴル系の軍閥が実権を握ることになり、バヤンは中書左丞相、知枢密院事などの肩書きを与えられた上、ついには浚寧王の王号まで名乗って皇族なみの待遇を受けるに至った。
 
[[1332年]]にトク・テムルが没すると、バヤンはエル・テムルとはかってまだ幼児の[[イリンジバル]]をハーカアンに立てる。しかし、新ハーカアンはわずか2ヶ月で死んでしまい、翌[[1333年]]にはエル・テムルが病没した。エル・テムルに代わる朝廷の最有力者となったバヤンは代わりのハーカアンとしてイリンジバルの兄[[トゴン・テムル]]を擁立し、自ら中央政府の首班である右丞相に就任。[[1335年]]にはエル・テムルの遺児タンキシの起こした[[クーデター]]を鎮圧し、ついに独裁権を掌握する。
 
やがてトゴン・テムルは成人するにつれてバヤンの専権を疎ましく思うようになったが、丁度バヤンの甥[[トクト]]が伯父を排斥しようとトゴン・テムルに接近してきた。[[1340年]]、トゴン・テムルの後援を受けたトクトはバヤンが宮廷を留守にした隙にクーデターを起こし、バヤンを失脚させた。バヤンは[[広東省|広東]]への流刑に処され、南に向かう途上で病死した。