「沖縄・読谷村「平和の像」破壊事件」の版間の差分

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'''沖縄・読谷村「平和の像」破壊事件'''(おきなわ・よみたんそん「へいわのぞう」はかいじけん)とは、[[1987年]]([[昭和]]62年)に[[沖縄国体での県]][[日本中頭郡]][[読谷村]]にある[[チビチリガマ]]前に建てられていた「'''チビチリガマ世代を結ぶ平和の像'''」が、[[沖縄旗|日の丸旗]]焼却事件]]への報復として右翼による報復り破壊されていた事件である。
{{出典の明記|date=2014年1月29日 (水) 04:23 (UTC)|ソートキー=沖縄おきなわよみたんそんへいわのそうはかいしけん}}
'''沖縄・読谷村「平和の像」破壊事件'''(おきなわ・よみたんそん「へいわのぞう」はかいじけん)とは、[[1987年]]([[昭和]]62年)の沖縄国体での[[日本の国旗|日の丸旗]]焼却事件への右翼による報復事件である。
 
== 事件の概要 ==
[[第二次世界大戦]]末期の[[沖縄戦]]で米軍が上陸した地点の1つである[[沖縄県]][[中頭郡]][[読谷村]]では、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[4月2日]]に住民84人が村内の[[鍾乳洞]]である[[チビチリガマ]]の中で[[沖縄戦における集団自決#チビチリガマの集団自決|集団自決]]した<ref name="mainichi_19871109">{{Cite news |和書 |title=「平和の像」壊される 沖縄読谷村 |date=1987-11-09 |newspaper=毎日新聞 |page=10}}</ref>。
[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])末期の[[沖縄戦]]でアメリカ軍が最初に上陸した[[読谷村]]では、1945年4月2日に同村[[チビチリガマ]](壕)に避難していた地元住民139人のうち84名が[[沖縄戦における集団自決|集団自決]]したと戦後長きにわたり地元では語ることもタブーとされていた。集団自決から42年後の[[1987年]][[4月2日]]に地元住民らの集団製作により犠牲者に対する鎮魂碑「平和の像」が除幕されたが、同年[[11月8日]]に原形をとどめないまで破壊されていた。「平和の像」が再建されたのは7年後の1995年3月のことであった。また遺品や遺骨が散乱しているチビチリガマの内部に入ることは、遺族会の意思により禁止されている。1987年[[12月19日]]に右翼団体のメンバー2人が[[暴力行為等処罰ニ関スル法律|暴力行為等処罰法]]違反で逮捕され、のちに実刑の有罪判決を受けた。
 
遺族や生存者は、心の傷の深さ故に戦後長く口を閉ざし、その悲劇が表に出ることはなかったが、[[1983年]](昭和58年)に作家である[[下嶋哲朗]]らの調査で、その全容が明らかになり、同年に遺族会が結成され、慰霊祭が毎年開催されるようになった<ref name="ryukyu_20170913">{{Cite news |和書 |title=強制死の史実刻むチビチリガマ 87年には「平和の像」破壊も |newspaper=[[琉球新報|琉球新報デジタル]] |date=2017-09-13 |url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-574251.html |accessdate=2021-09-27}}</ref>。沖縄出身の[[彫刻家]]である[[金城実]]が、この悲劇を残し反戦の証にしようとして数年がかりで[[レリーフ]]を作り、[[1987年]](昭和62年)4月2日、「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」(幅2.2m、高さ4m)をチビチリガマの前に建立し、除幕式を行った<ref name="mainichi_19871109" /><ref name="ryukyu_20170913" />。この像は新しい平和のシンボルとして、本土からも参拝者が来ていた<ref name="mainichi_19871109" />。
== 事件の背景 ==
現場には「'''国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅ヲ下ス'''」との犯行文が残されていた。これは1987年[[10月6日]]に地元で開催された[[第42回国民体育大会|沖縄国体]]の[[ソフトボール]]会場で球場に掲揚されていた[[日章旗]]を[[知花昌一]](当時39歳)が焼き捨てた示威行為に対する右翼による報復行為であった。
 
[[1987年]]([[昭和]]62年)[[11月8日]]朝、「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」が原形を留めない程に破壊されているのを参拝にきた人が発見した<ref name="mainichi_19871109" />。現場近くには日の丸旗と「'''国旗オ燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅下ス'''」と書かれたビラがあったことから、[[10月26日]]にあった[[沖縄国体日の丸焼却事件]]に反感を持った者のいやがらせとして捜査が始まった<ref name="mainichi_19871109" />。
== 日の丸焼却事件 ==
{{詳細記事|沖縄国体日の丸焼却事件}}
沖縄県の本土復帰までは全県民にとって日章旗は米軍による占領支配からの解放の象徴であった。
 
[[11月19日]]、[[沖縄県警察]]と[[嘉手納警察署]]が右翼団体構成員の2人を[[暴力行為等処罰ニ関スル法律|暴力行為等処罰法]]違反の疑いで逮捕した<ref name="asahi_19871221">{{Cite news |和書 |title=沖縄の「平和の像」破壊、右翼2人逮捕 |date=1987-12-21 |newspaper=朝日新聞 |page=13}}</ref>。1人は犯行を否認したが、もう1人は「日の丸焼却事件に反感を持ち、報復として壊してやろうと思った。」と自供した<ref name="asahi_19871221" />。[[1988年]](昭和63年)[[3月10日]]、[[那覇地方裁判所]]で判決公判があり、2人に懲役1年の実刑を言い渡した<ref>{{Cite news |和書 |title=平和の像破壊の右翼に実刑判決 那覇地裁 |date=1988-03-10 |newspaper=朝日新聞 |page=19}}</ref>。
その後日本復帰で在日米軍は全て撤退されると思っていた知花は撤去の復帰後も米軍基地が相変わらず存在することに変わりなく、日本政府に対する反発で日章旗焼き捨てを行ったとされる。
 
事件後、「破壊されたままの現場を保存して公開しておくべきだ。」との意見が出ていたが、「破壊されたままの姿は忍びない。」という声が上がったことや、沖縄県内外から修復を願って約1千万円もの寄付が遺族会に寄せられたことから、「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」は再建され、戦後50年の節目となる[[1995年]]([[平成]]7年)[[4月1日]]に完成式が行われた<ref name="ryukyu_20170913" /><ref>{{Cite news |和書 |title=記録ビデオ試写会や「平和の像」再建 米軍の沖縄上陸50年 |date=1995-04-02 |newspaper=朝日新聞 |page=30}}</ref>。
なお、[[刑法 (日本)|刑法]]92条で規定される[[外国国章損壊罪]]の対象は外国の国旗であり、日本の国旗は対象にならない。そのため、知花は[[器物損壊]]罪(刑法261条)で起訴され、[[1995年]]に執行猶予付きの有罪判決が[[那覇地方裁判所]]から下された。
 
== 脚注 ==
判決文は「沖縄県における日章旗に対する強い拒否反応とそれを強制しようとする国家権力に対する反発は理解できるとしても、それに対するこのような示威行為は社会的に是認されるものとはいえず、正当化できるものではない」とした。
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[チビチリガマ]]
* [[沖縄戦における集団自決]]
==* [[沖縄国体日の丸焼却事件 ==]]
 
== 外部リンク ==
* [httphttps://www.yomitan-sonsi.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm チビチリガマでの「集団自決」] | 読谷村HP史編集室へり)うこそ
* [https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/senseki/map/guide/guide07.html 7 チビチリガマ | 読谷村の戦跡めぐり] | 読谷村史編集室へようこそ
 
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