「アントニオ・サリエリ」の版間の差分

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生前は[[神聖ローマ皇帝]]・[[オーストリア皇帝]]に仕える[[宮廷楽長]]としてヨーロッパ楽壇の頂点に立った人物であり、また[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[フランツ・リスト|リスト]]らを育てた名教育家でもあった。
 
彼はウィーンで作曲家として、特にイタリア・[[オペラ]]、[[室内楽]]それと[[宗教音楽]]において高い名声を博した。彼の43曲のオペラのうち、もっとも成功したのはパリのオペラ座で初演された『[[ダナオスの娘たち]]({{fr|''Les Danaïdes''}})』([[1784年]])と『[[タラール (サリエリ)|タラール]](''Tarare'')』([[1787年]])だった。[[1778年]]、[[ミラノ]]の[[スカラ座]]の開場を飾ったのも、彼の『見出されたエウローパ(''Europa riconosciuta'')』である。
 
死後はその名と作品を忘れられたが、[[ピーター・シェーファー]]による戯曲『[[アマデウス]]』([[1979年]])、およびその[[アマデウス_(映画)|映画版]]([[1984年]])の主人公として取り上げられたため、知名度が上昇。[[2003年]]に大[[メゾソプラノ]]歌手[[チェチーリア・バルトリ]]がアルバムを出すなど、21世紀に入ってからは音楽家としての再評価の動きもあり、[[2009年]]からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭<ref>[http://www.teatrosalieri.it/index.asp?m0=cartellone&tipo=Salieri_Opera_Festival Salieri Opera Festival] {{it icon}}</ref>が毎年開催されている。
当時、グルックは活動本拠を[[パリ]]に移し、ウィーンの[[宮廷楽長]]である[[ジュゼッペ・ボンノ]]は引退状態にあったため、サリエリが当時の宮廷でもっとも重要な作曲家になっていた。このために1778年のミラノ・[[スカラ座]]のこけら落としのためにオペラ『見出されたエウローパ(''Europa riconosciuta'')』({{仮リンク|マッティア・ヴェラーツィ|en|Mattia Verazi}}のリブレット)を作曲する栄誉がサリエリに与えられた(ミラノは当時[[ハプスブルク帝国]]の支配下にあった){{sfnp|Heartz|1995|p=433}}。[[1788年]]にボンノが没すると、その後継者として宮廷楽長に任命され、亡くなる直前の[[1824年]]まで36年間その地位にあった<ref name="naxos"/>。
 
サリエリはイタリアオペラの作曲家として成功したが、1784年から1787年にかけて3曲のフランス語オペラを作曲して[[パリ]]で名声を得た。1784年に初演された『[[ダナオスの娘たち]](''Les Danaïdes'')』は、はじめグルックとの共作として発表されたが、後にサリエリのみが作曲者であることが明らかにされた{{sfnp|Blanchetti|2017}}。次作『{{仮リンク|オラース兄弟|en|Les Horaces}}(''Les Horaces'')』(1786年)は失敗に終わったが、[[カロン・ド・ボーマルシェ|ボーマルシェ]]の台本によって1787年に作曲したフランス語オペラ『{{仮リンク|[[タラール (サリエリ)|label=タラール|en|Tarare (opera)}}]](''Tarare'')』では最大の成功を得た{{sfnp|Blanchetti|2017}}<ref name="naxos"/>。ヨーゼフ2世の要望によって『タラール』はダ・ポンテによってイタリア語に翻案されて『オルムスの王アクスール(''Axur, re d'Ormus'')』として上演され、こちらも成功した{{sfnp|Blanchetti|2017}}。『タラール』に代表される後期の英雄喜劇あるいは英雄悲劇作品では、サリエリは[[オペラ・セリア]]と[[オペラ・ブッファ]]、あるいはイタリア・オペラとフランス・オペラという伝統的区分を融合して新しいジャンルの音楽を意図的に生み出している<ref name="ndb"/>。
 
[[墺土戦争 (1787年-1791年)|墺土戦争]]の勃発以降、宮廷でのオペラ活動は低調となった。サリエリは1798年に[[ウィリアム・シェイクスピア]]の戯曲『[[ウィンザーの陽気な女房たち]]』を原作とするオペラ『ファルスタッフ(''Falstaff, ossia Le tre burle'')』を書くが、その後オペラの作曲は低調となり、1802年以降は新作を書かなくなった<ref name="dewit3">{{citation|url=http://www.salieri-online.com/bio3.php|title=Biography Part III|author=W. A. DeWit|publisher=salieri-online.com}}</ref>。その後は主に宮廷の教会用に宗教作品を書いた。1804年には大規模な『レクイエム ハ短調』を作曲し、1815年には最後の管弦楽作品である『スペインの[[フォリア|ラ・フォリア]]の主題による26の変奏曲 ニ短調』を作曲した<ref name="dewit3"/>。