「沖縄国体日の丸焼却事件」の版間の差分
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'''沖縄国体日の丸焼却事件'''(おきなわこくたいひのまるしょうきゃくじけん)は、[[1987年]]([[昭和]]62年)[[10月26日]]に[[沖縄県]]で開催された[[第42回国民体育大会]]のうちの少年男子ソフトボール競技会の開始式において、掲揚された[[日の丸|日の丸旗]]を[[知花昌一]]が引き降ろして燃やした事件。当時は[[日本の国旗]]について法整備がされておらず、第一審判決についてマスコミが「日の丸を国旗と認める初の司法判断」として報道したこと{{Refnest|group="注釈"|正確には、検察官が起訴状において器物損壊罪の対象物を「国旗」と記載し、公判において「国旗とは日の丸旗のことである」と釈明したことに対して、訴因の特定の観点から「検察官が公訴事実において器物損壊罪の対象物として記載した『国旗』とは『日の丸旗』を指すと理解でき、訴因の特定、明示に欠けるところはない。{{Sfn|第一審判決|1993|p=117}}」と判示しただけであり、日の丸旗全般について法的意味を持つ日本の国旗であると判示したわけではない{{sfn|中島|1994|p=14}}<ref>{{Cite web |author=松元剛 |url=https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/27818 |title=日の丸事件を裁いた宮城京一さん 沖縄の戦後見つめた憲法論 |website=取材ノート |publisher=日本記者クラブ |date=2014-09 |accessdate=2021-09-27}}</ref>。}}、控訴審では、[[沖縄戦における集団自決]]を始めとする沖縄の歴史と現状への認識について、日の丸を焼却した行為が[[表現の自由|表現行為]](象徴的表現)であるかどうかが焦点とされたことから各方面で大きな反響を呼んだ{{sfn|中島|1994|p=14}}{{sfn|中村|1996|p=289}}。
表題のほか、報道や文献により、「'''日の丸事件'''{{sfn|高良|1992a|p=76}}{{sfn|高良|1992b|p=16}}」、「'''日の丸焼却事件'''{{sfn|森川|2002|p=117}}」、「'''日の丸焼き捨て事件'''<ref>{{Cite news |和書 |title=引き裂かれた師弟 日の丸焼き捨て事件に有罪判決 |date=1993-03-23 |newspaper=朝日新聞 |page=12}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://yomitan-sonsi.jp/sonsi/senseki/map/guide/guide07.html |title=チビチリガマ |website=読谷村の戦跡めぐり |publisher=読谷村史編集室へようこそ |date= |accessdate=2021-09-27}}</ref>」、「'''日の丸引き降ろし事件'''<ref name="asahi_19871116">{{Cite news |和書 |title=「かりゆし」火消え沖縄の“長い秋”に幕 日の丸事件重い沈黙 |date=1987-11-16 |newspaper=朝日新聞 |page=3}}</ref>」、「'''日の丸引き降ろし・焼き捨て事件'''<ref>{{Cite news |和書 |title=「平和の像」破壊指示の右翼2人に懲役 那覇地裁が判決 |date=1988-05-30 |newspaper=朝日新聞 |page=12}}</ref>」、「'''日の丸引き降ろし焼却事件'''<ref>{{Kotobank|国旗|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>」、「'''焼き捨てられた日の丸事件'''{{sfn|加藤|2001|p=32}}」などの別の表記がある。
== 概要 ==
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== 経緯 ==
[[1984年]](昭和59年)[[7月4日]]、[[第42回国民体育大会]](以下「沖縄国体」)は、[[日本体育協会]]・[[文部省]]・[[沖縄県]](以下「主催者」)が主催となって[[1987年]](昭和62年)に開催されるこ
1986年(昭和61年)7月、日本ソフトボール協会会長・弘瀬勝は、沖縄国体のリハーサルとして行われたソフトボール大会後のパーティーの席で、日の丸旗の掲揚について問題が起こるかも知れないとの説明を受けた{{Sfn|第一審判決|1993|p=115}}。そこで、弘瀬は山内に対して日の丸旗の掲揚が慣行どおり行えるかどうか確認し、山内から「最大限努力します。」という旨の回答を受けた上で、問題が起こった場合には連絡してほしいという旨を伝えた{{Sfn|第一審判決|1993|p=115}}。山内は、日の丸旗の掲揚については、沖縄国体を開催する以上やむを得ないと考えていたが、同年12月の読谷村議会において「日の丸掲揚、君が代斉唱の押しつけに反対する要請決議」が採択されたり、同時期に日の丸旗掲揚や君が代斉唱の強制に反対する旨の署名が8000名以上(村民の約3割)から集められたりしたことを踏まえて、山内は日の丸旗の掲揚をせずに競技会の開始式を行いたいと考えるようになった{{Sfn|第一審判決|1993|p=116}}。しかし、協議しても受け入れられないだろうと考えて、弘瀬には事情を伝えることなく、開催日が迫ってから、山内は日本ソフトボール協会の下部組織である沖縄県ソフトボール協会の理事長に、日の丸旗の掲揚をせずに競技会の開始式を行う方針を伝えた{{Sfn|第一審判決|1993|p=116}}。それを知った弘瀬は、今になってから上部組織にあたる日本体育協会の意向に反して日の丸旗の掲揚をせずに開始式を行うことはできず、また、早急に結論を出す必要があると考え、1987年(昭和62年)[[10月22日]]に山内に対して、日の丸旗を掲揚しなければ会場変更もあり得るという旨を電話で伝えた{{Sfn|第一審判決|1993|p=116}}。これを受け、読谷村実行委員会で協議を重ね、[[10月23日]]には、日の丸旗は掲揚するとの結論が出され、弘瀬もこれを了承した{{Sfn|第一審判決|1993|p=116}}。そして、[[10月24日]]に、マスコミや関係者に対して、開始式において日の丸旗を掲揚することで話し合いがついたことが公表された{{Sfn|第一審判決|1993|p=116}}。
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