「ジョルジュ・ベルナノス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
31行目:
[[パリ]]の室内装飾職人の家庭に生まれる。幼少期から青年期には[[パ=ド=カレー県]]にあるフレッサン(Fressin)という小さな村で主に過ごす。[[ブールジュ]](Bourges)の神学校とエール=シュル=ラ=リス(Aire-sur-la-Lys)の[[コレージュ]]で学び、[[1906年]]に[[パリ大学]]へ進む。
 
{{仮リンク|エドゥアール・ドリュモン|fr|Édouard Drumont}}を信奉し<ref>{{Cite book|和書|author=H・R・ロットマン|year=1985|title=セーヌ左岸|publisher=みすず書房|pages=P.98}}</ref>、18歳の時から[[アクション・フランセーズ]]に入団し[[1908年]]にはその行動隊であるカムロ・デュ・ロワ(Camelots du roi)に所属し、その首領格として昼は共和派の集会を妨害し警官隊と衝突、夜は果てしない議論に没頭するという生活を送る。活動により[[サンテ刑務所]]に収監され、その間に書評と論文を書き新聞に投稿し始める。[[1913年]]から[[王党派]]の新聞に本格的に論説を載せるようになる。[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]がはじまると志願して戦地に赴いている。戦後は生活のために保険会社の調査員となり、パリや[[ムーズ県]]に居を構え、出張先で小説を書きつづるようになる<ref>{{Cite book|和書|author=高坂和彦・訳|year=1973|title=月下の大墓地|publisher=白馬書房|pages=304p}}</ref>。
 
[[1922年]]から小説を発表し、[[1926年]]に『悪魔の陽の下で(''Sous le soleil de Satan'')』により大きな反響を呼んだ。文筆で生活することを決意し、小説執筆のかたわら、アクション・フランセーズのために政治に関するエッセイ寄稿・講演活動を行う。[[1936年]]に出版された小説『田舎司祭の日記(''Journal d'un curé de campagne'')』は諸外国語にも翻訳されるほど反響を呼び、作家としての地位が確立される<ref>{{Cite book|和書|author=高坂和彦・訳|year=1973|title=月下の大墓地|publisher=白馬書房|pages=307p}}</ref>。