「ドイツ」の版間の差分

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=== 先史時代から東フランク王国まで ===
 現在のドイツを含む西ヨーロッパ地域に人類が居住を始めたのは、[[石器]]などが発見されたa地層から約70万年前と考えられている。60万年から55万年前の地層では[[ホモ・ハイデルベルゲンシス|ハイデルベルク原人]]の化石が、4万年前の地層では[[ネアンデルタール人]]の化石が確認されている。[[新人]]は約3万5000年前から現れ、紀元前4000年ごろの巨石文明を経て紀元前1800年ごろまでに[[青銅器文明]]に移行している。紀元前1000年ごろには、ケルト系民族によって[[ドナウ川]]流域に[[ハルシュタット文化|ハルシュタット文明]]と呼ばれる[[鉄器文明]]が栄えた。
 
 [[紀元前58年]]から[[紀元前51年|51年]]までの[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の[[ガリア遠征]]などを経て、ゲルマン人は傭兵や農民として[[ローマ帝国]]に溶け込んでいった。しかし紀元後9年に[[トイトブルク森の戦い]]が起こり、ゲルマン人が勝利して[[ライン川|ライン]]右岸を守った。この流域南部において83年に[[ドミティアヌス帝]]がリメス・ゲルマニクスの建設を打ち出し、マイン川からドナウ川へとつながる長城が建設された。これによってライン中・上流域では[[リメス]]が前進した。これは2000年にわたるドイツ史の将来を規定する伏線となった。すなわち、ローマ帝国内にあるドイツ南部と、外にあるドイツ北部である。ローマ帝国の解体が進むと、[[375年]]には[[西ゴート族]]が黒海沿岸から地中海に沿って、コロナートゥス化の進んだ西部へ移動した。
 
 476年、[[西ローマ帝国]]が滅亡した。代わって西ヨーロッパを支配した[[フランク王国]]では各地に分王国が興り、そのひとつ[[アウストラシア]]が北方でライン両岸を占めた。843年、[[ヴェルダン条約]]によってフランク王国が三分割された。そのうちのひとつである[[東フランク王国]]が、のちのドイツの原型となった。東フランク王国の国王[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]([[ザクセン公国|ザクセン朝]])は[[962年]]に'''[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]'''(古代ローマ帝国皇帝の称号)を得て、いわゆる'''[[神聖ローマ帝国]]'''と呼ばれる連合体を形成した。
 
=== 神聖ローマ帝国 ===
 皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]のとき、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国({{lang|de|Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation}})」と国名を称した。[[宗教改革]]はドイツの諸侯が新旧両教に分かれて互いに争った。
 
 [[三十年戦争]]ではドイツのほとんど全土が徹底的に破壊され、1600万人いたドイツの人口が戦火によって600万人に減少したといわれる。
 
 [[帝国自由都市]]の自治権が奪われ、ドイツは領邦主権体制となった。[[1667年]]に[[・フォン・プーフェンドルフ]]が著した書『ドイツ帝国憲法について({{lang|de|Über die Verfassung des deutschen Reiches}})』において初めて、'''[[ドイツ国]]'''という呼称が確定できる。
 
=== プロイセン王国の台頭とドイツ帝国の興亡 ===