「松井氏」の版間の差分

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=== 肥後八代城主へ ===
藩主・[[細川忠利]]の父である忠興が隠居城とした肥後[[八代城]]は薩摩の島津氏に対する押さえの役割を持ち、特に[[一国一城令]]の例外とされていたが、[[正保]]3年([[1646年]])には興長が八代城を預かることになり、以後代々松井家が八代城主を務めた。興長は細川忠興の娘古保を妻とし、また忠興の六男を養嗣子に迎え([[松井寄之]])、細川別姓である長岡姓を賜り長岡佐渡守と称した。
 
松井家は、[[宮本武蔵]]が細川家に仕官する直前に興長に宛てた書状(長岡佐渡守宛書状)が残るなど武蔵と親交が深かった。寄之は熊本藩の客将となった[[宮本武蔵]]を後見し、兵法では武蔵の弟子となった。寄之は、病身の武蔵の世話をし、武蔵の養子である[[宮本伊織]]と書状のやりとりをするなど、武蔵と深く関わった。そのため、水墨画や工芸品など多くの武蔵ゆかりの品々が現在も松井家に伝えられている。