「宝厳寺」の版間の差分

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境内の隣にあった都久夫須麻神社は[[延喜式神名帳]]にある通り、浅井姫命を祭神とする近江国浅井郡の神社であったが、浅井姫命は[[浅井氏]]の[[氏神]]ともいわれ、湖水を支配する水の神ともいわれることから、平安時代末期頃にはこの神は、仏教の水の神である弁才天(元来は[[インド]]起源の河神)と同一視されるようになっていくと、ついには弁才天と同一とされる[[イチキシマヒメ|市杵島比売命]]も祀るようになり、神仏習合が進んで都久夫須麻神社は当寺と一体化していった。本尊大弁才天を祀る当寺の本堂は現在の都久夫須麻神社の本殿であったことからもわかるように、寺と神社の区別はなくなっていき、寺名と社名も合わさって'''竹生島大神宮寺'''や'''竹生島権現'''などと名乗り、観音と弁才天信仰の島として栄えた。後には宝厳寺とも呼ばれるようになった。
 
中世以降、[[貞永]]元年([[1232年]])、[[享徳]]3年([[1454年]])、[[永禄]]元年([[1558年]])などに大火があり社殿が焼失したが、その都度復興している。永禄元年の大火後、[[慶長]]7年([[1602年]])に[[片桐且元]]が普請奉行として伽藍を復興している。この際復興されたのが唐門、観音堂、渡り廊下、その渡り廊下と繋がっている本堂(現・都久夫須麻神社本殿)である。唐門は[[豊国廟]]([[京都市|京都]]の[[東山 (京都府)|東山]]にあった[[豊臣秀吉]]の霊廟)の唐門(極楽門ともいい、元は[[大坂城]]の極楽橋の唐破風造部分である)を[[豊臣秀頼]]が新築する際に、[[徳川家康]]が移築したもので普請奉行は片桐且元であった。またり、本堂(現・都久夫須麻神社本殿)は豊国廟あるいは[[伏見城]]の日暮御殿を移築したものとされる。
 
[[江戸時代]]となっても当寺は弁才天信仰と[[西国三十三所]]観音霊場の札所として大いに賑わったが、[[明治]]時代となって[[神仏分離]]令が出されると、時の政府は本堂である弁才天堂を平安時代の『延喜式』に見える「都久夫須麻神社」という社名に変更することを強要し、[[1871年]](明治4年)には[[大津県]]庁より[[仏教]]寺院としての宝厳寺は廃寺するように、との命令も出されて危機を迎える。しかし、寺側は大弁才天は[[神道]]の神ではなく仏教の仏であると主張して譲らなかった。結局、竹生島の信仰施設は宝厳寺と都久夫須麻神社に分離することになり、[[1874年]](明治7年)に「寺」と「神社」の境界が決まり、これまでの寺の本堂が分離した都久夫須麻神社の本殿となった。[[1883年]](明治16年)には寺の財産と神社の財産が区別されて今日に至っている。現状、宝厳寺と都久夫須麻神社は別法人であるが、宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿は渡り廊下で直接連絡しており、両者はもともと不可分の関係にあることがわかる。