「大久野島の毒ガス製造」の版間の差分

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=== 地理 ===
{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=right|frame-width=300|frame-height=300|type=shape|id=Q385313|title=大久野島}}
[[ファイル:Lighthouse in Okunoshima, August 2018.jpg|250px|right|thumb|大久野島灯台。陸軍施設群が建てられる前に逓信省によって建てられた。見えている範囲内はすべて旧逓信省、現[[海上保安庁]]所管。]]
{{See also|大久野島#歴史|忠海#歴史|芸予要塞}}
近代に入り広島県[[豊田郡]]の郡役場は大久野島の北側である忠海に置かれた{{r|03_1syou}}。明治23年(1890年)忠海に呉憲兵分隊が置かれ、大久野島には明治35年(1902年)国土防衛と当時の兵器性能の問題から陸軍の芸予要塞が築かれ、忠海には大正7年(1918年)陸軍電信独立大隊も置かれた{{r|03_1syou}}{{r|jsce202}}{{r|QA2}}。
 
つまり、忠海は近代に入り郡の政治の中心となり、陸軍にとっても重要な位置を占めていた{{r|QA2}}{{r|03_1syou}}。当時の地図では芸予要塞秘匿のため忠海一帯から[[来島海峡]]まで瀬戸内海を縦断するように赤で塗りつぶされていたという{{r|kaihou0501}}。現在一般的な説として、昭和初期に毒ガス製造所があったため当時[[陸地測量部]]が発行した一般向け地図では大久野島一帯は空白地域として扱われた“地図から消された島”と言われている{{r|chugoku20150423}}{{r|hakusuisha}}が、実際にはそれより前から[[日本における検閲|検閲]]されていたことになる。
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[[ファイル:Waters off Tadanoumi map circa 1938.jpg|200px|left|thumb|陸軍参謀本部陸地測量部「明神 [1938] (二万五千分一地形圖 ; 廣島 3號 三津ノ1)」]]
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| caption =大久野島のみではなく周辺一帯を消していた。
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[[ファイル:Lighthouse in Okunoshima, August 2018.jpg|250px|right|thumb|大久野島灯台。陸軍施設群が建てられる前に逓信省によって建てられた。見えている範囲内はすべて旧逓信省、現[[海上保安庁]]所管。]]
一方でこの島の南から東への海域は“三原瀬戸航路”、近代において潮流の影響で来島海峡を航行できない船が通っていた重要な航路であり([[大浜埼灯台#沿革]]参照)、[[大久野島灯台]]を目印に多くの船が航行していた{{r|dengon054}}{{r|jsceheritage}}。灯台付近のみ[[逓信省]]所管{{r|dengon054}}だが、毒ガス製造所が開所するにあたり島のすべてが陸軍用地となったとする資料がある{{r|chugoku20150423}}。また島が軍用地となった際に、灯台付近のみ南側の愛媛県[[大三島]]の行政管理下に委任していたとする資料がある{{r|new_page_16}}。