「パラマウント・ピクチャーズ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
62行目:
[[東欧系ユダヤ人]]として[[ハンガリー]]で生まれた[[アドルフ・ズコール]]は移民労働者からハリウッドのタイクーンになった人物である<ref> MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行</ref>。
 
彼は若くして新大陸に渡り、モップ拭きからスタートして毛皮商として成功し、そして後に劇場王となる同業者の親友、マーカス・ロウ<ref>{{efn2|後にメトロ社を買収して、その後にサミュエル・ゴールドウィンのゴールドウィン社とメイヤー社の2社と合併してメトロ・ゴールドウィン・メイヤー即ちMGMを創立する。</ref>}}に触発され、ボードビル会社を設立<ref>{{efn2|当時は映画専門館はなく、演芸のボードビリアンの興行の合間に映画を上映する形態が普通で、したがって映画は屋外のテントや芝居小屋で上映されていた。そしてこのボードビル興行を請け負った人々がやがて映画興行に移り、ニッケルオデオンと呼ばれる映画小屋の経営に乗り出すことが多かった。</ref>}}。次いで[[ニッケルオデオン (映画館)|ニッケルオデオン]]興行から映画配給、映画製作へと進出した。
 
1912年、製作プロダクションの乱立で作品の質の低下に行き詰まりを感じたズコールは、1906年頃にフランスに起こった、文学や戯曲の名作を当時の人気舞台俳優たちに演じさせて映画を作る芸術映画運動(フィルム・ダール)<ref>{{efn2|この当時まで映画は娯楽であって庶民や移民労働者に支えられて、芸術とは見なされていなかった。1908年2月にフランスで芸術家による映画製作を目指すフィルム・ダール社が設立されて、その名の通り映画芸術を高めることを目的として同年「ギーズ公の暗殺」を製作して、出演はコメディーフランセーズの俳優たちで、この映画の伴奏音楽を当時の大作曲家[[サン・サーンス]]が作曲した。結局1年で会社は解散となったがフィルム・ダールの運動はその後も続いた<ref>「映画史を学ぶクリティカル・ワーズ」54P フィルム・ダールの項 参照 村山匠一郎 編 フィルムアート社 2013年7月発行</ref>。}}に注目して、フランスに行き、当時舞台での大女優サラ・ベルナールを口説き落として全財産を注ぎ込んで製作したのがサイレント映画の大作「エリザベス女王」で、これをアメリカに逆輸入して大ヒットさせた。ズコールはこれに力を得て同年[[映画スタジオ]]を設立、「・・有名な戯曲を有名な俳優によって映画に・・」(あるいは「・・名優を名作で・・」<ref>「映画の夢、夢のスター」296P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行</ref>)をキャッチフレーズに[[フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニー|フェーマス・プレーヤーズ]]と名付けた<ref> MOOK21「20世紀の映画」47P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行</ref>。
 
この時ボードビリアンのジェシー・ラスキー、手袋商の[[サミュエル・ゴールドウィン|サミュエル・ゴールドフィッシュ]]<ref>{{efn2|後にゴールドウィン社を設立し、やがて合併してMGMとなる。</ref>}}(後にゴールドウィンと改名)、当時脚本家で後に大プロデューサーとなる[[セシル・B・デミル]]らと組んで、翌1913年にハリウッド初の長編映画「スクォー・マン」を製作する<ref> MOOK21「20世紀の映画」9P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行</ref>。
 
さらには、[[D・W・グリフィス]]が『[[國民の創生]]』(1915年)、『[[イントレランス]]』(1916年)を次々発表。ズーカーの経営手腕は凄まじいもので、人気スターの出演作を次々購入・製作し、市場を奪われた興業者たちの間では「ズコールを止めろ!」が合言葉になる程であった。20年半ばでの収益はフォックスの2倍、ユニバーサルの3倍、ワーナーの5倍に及んだ<ref> MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行</ref>。やがて、ズコールとラスキーはそれぞれの会社と新興の配給会社パラマウントを併合して、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオとなり、それが今日のパラマウント・ピクチャーズとなった。
74行目:
パラマウントといえば、映画の冒頭に映し出される山と星のオープニングロゴを創業以来一貫して使用していて、雪が残る[[ピラミッド]]形の山頂(マジェスティック・マウンテンと呼ばれている)を、22個の[[五芒星]]が[[蹄鉄]]形に囲んだものである。
* パラマウントとはカリフォルニア州ロサンゼルス近郊のハリウッドの地名からきているが、「最高」「至上」の意味もあり、マウント(山)をパラ(超えて)の意味を込めて会社マークの図案が作られたと言われている<ref>「映画の夢、夢のスター」298P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行</ref>。
* この星マークはかつて専属[[スター]]の数を表して、当初は24個<ref>{{efn2|記念映画と思われるが特定の一時期に30個の星を使ったことがある。</ref>}}だったが、1974年に現在の22個となった。「まさに綺羅星のごとく輝く星を山の上に並べて、1年12か月常に男優女優を合わせたオールスターが山の頂点にいる、満天の夜空にかがやく星の数だけ世界の頂点に立つスターがいる」<ref>「映画の夢、夢のスター」296P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行</ref>という意味である。しかしなぜ24個が22個に減らされたのか詳らかではない。
* 描かれている山は実在するものではない。パラマウントの社名の元となった配給会社を作ったウィリアム・ホドキンソン([[:en:William Wadsworth Hodkinson]])が、[[ユタ州]]の山をイメージして描いたため、[[ワサッチ山脈]]のベン・ローモンド山([[:en:Ben Lomond Mountain (Utah)]])<!--[[デナリ|マッキンリー山]]ではない-->がモデルと言われている。
* 以前は山に雲が通り過ぎ、ブルーの絵に変わる平面アニメーションであったが、現在は3DCGアニメーションとなっている(CGアニメーション版は[[1984年]]頃に[[ピクサー・アニメーション・スタジオ]]が製作したとされる)。また、ロゴ中の文字も以前は「A Paramount Picture」もしくは「A Paramount Release」が同一書体で書かれていたが、現在は「Paramount」のみが残され、その下に「A ViacomCBS Company」の文字が配されている。
80行目:
 
== パラマウント訴訟 ==
[[アメリカ合衆国の映画|アメリカの映画史]]を語る場合に、1948年の「パラマウント訴訟」<ref>{{efn2|あるいは「パラマウント判決」「パラマウント同意判決」とも呼称されている。</ref>}}を外すことはできない。パラマウントの創業者のズーカー、フォックスの創業者ウイリアム・フォックス、ユニバーサルの創業者カール・リームル、MGMの創業者のルイス・B・メイヤーとマーカス・ロウ、そしてワーナー兄弟らは最初は映画興行者としてこの世界に入った。そして彼らはやがて映画興行の分野から配給業者として配給の分野を抑えて、やがて映画製作の分野に進出した。そして製作・配給・興行の三部門をいずれも自社で賄い、特に映画館をそれぞれが自社の傘下に入れて、ほぼ市場を独占して寡占化の状態となった。
 
こうした製作・配給・上映を垂直に統合した構造的連携は前例のない競争力を発揮して、製作者は作っても上映されない不安はなく、映画館は毎週のプログラムに穴があくような作品不足を心配することはなく<ref>{{efn2|こうした同じ製作会社からの作品を一手に引き受けて上映する固定したシステムをブロック・ブッキングという。これとは違って別の会社の作品をも上映するシステムをフリー・ブッキングといい、要は映画館側の興行者が自由に作品を選べる選択権の有無の違いである。日本はずっとブロック・ブッキング制が続いている。</ref>}}、配給者は製作側と上映側との調整で効率的に宣伝活動が行える体制が出来上がった。こうした製作・配給・上映を連結させた垂直統合構造<ref>{{efn2|日本は現在でもこの構造は残っている。</ref>}}が主流となり、これに最も尽力したのがアドルフ・ズーカーでパラマウントは早い時期からアメリカの映画会社のメジャーとなった<ref>「ハリウッド100年史講義」81〜83P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行</ref>。
 
1940年代にはアメリカ映画界のメジャー会社としてパラマウント、[[MGM]]、[[ワーナー・ブラザース]]、[[RKO]]、[[20世紀フォックス]]<ref>{{efn2|創業者のウイリアム・フォックスはその後大恐慌で破産して会社を離れ、やがてワーナー・ブラザースから独立したダリル・F・ザナックが作った20世紀映画と1935年に合併して20世紀フォックスとなった。</ref>}}のビッグ5と、[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニバーサル]]、[[コロンビア ピクチャーズ|コロンビア]]、[[ユナイテッド・アーティスツ|ユナイト]]のリトル3を合わせて8社が挙げられていた。この当時パラマウントは破産と再建を経て筆頭会社に挙げられていたのである<ref>「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行</ref>。それは一方で、ビッグ5と呼ばれた各社が独自の配給網を使って傘下の映画館には自社のA級作品を優先的に卸して独立系の映画館には人気の無い作品を高額で卸し、また独立系プロの製作した作品は自社の映画館には卸さない差別的な商法<ref> MOOK21「20世紀の映画」13P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行</ref>でもあったので、このことで苦情や抗議が相次ぎ、1938年に司法省がビッグ5のメジャー5社に対して独占禁止法に触れるとして訴えを起した。これが筆頭会社の名をとって「パラマウント訴訟」<ref>{{efn2|資料によってはリトル3を含め8社が訴えられているとする資料もある。また第1次訴訟と第2次訴訟があり、1948年に第2次訴訟の決着がついた。</ref>}}と今日では呼ばれているものである。
 
訴訟は第1次と第2次の訴訟で裁判が長引き、地裁、高裁を経て最高裁が差し戻し、1948年に地裁で独占禁止法に触れるとする判決が出されて、まずRKOが同年11月、パラマウントは1949年3月に判決に同意した<ref>{{efn2|そのため、これを「パラマウント同意判決」とも呼ばれている。なお他社もその後順次に判決に同意に、1952年2月に最後まで粘っていたMGMも同意して裁判は終わった。</ref>}}結果、この判決のため、各社とも自社で抑えていた劇場網である映画館を手放さざるを得なくなった<ref>「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行</ref>。これによってメジャー各社は最大の収益源であった劇場を手放すことになり、興行側が自由に競争できるフリー・ブッキング制に移り、またテレビの登場で観客数の減少傾向になったことで、映画会社は余裕があった時代には製作できた「B級映画」を削減せざるを得なくなり、1本の作品にかける大作主義をとるようになった。それは当然製作本数の激減を生み、監督やスタッフ、俳優の需要が減り、やがて[[1960年代]]後半から[[1970年代]]半ばにかけて映画製作の本拠地であったハリウッドのスタジオが閑古鳥に泣く事態となり、ハリウッドが生まれてから続いた「スタジオシステム」を崩壊させて、映画の都ハリウッドの変貌をもたらすことになった。
 
== 次世代DVDへの対応 ==
[[HD DVD]]と[[Blu-ray Disc]](以下“Blu-ray”)がDVDの後継[[フォーマット]]を巡って争った、いわゆる当時の「次世代ディスク([[第3世代光ディスク|次世代DVD]])戦争」では、パラマウントは、当初HD DVDのみを支持していた<ref>{{efn2|パラマウントの代表的[[コンテンツ]]製作子会社である[[ドリームワークス]]社も当時パラマウントと同時にHD DVD支持の意向を示した。</ref>}}が、Blu-rayの生産コストがDVDとほとんど変わらなくなったことを受け、2005年10月には、[[ワーナー・ブラザース]](以下“ワーナー”)と共に両フォーマットを支持する方針に転換して、Blu-ray版ソフトのリリースを開始。その結果もあり、フォーマット争いはBlu-ray有利で進んでいた。
 
2007年8月20日、パラマウントは突如として再びHD DVD版のみをリリースする方針に転換する事を発表、発売を控えていた複数のBlu-rayタイトルが発売中止。既発売のBlu-ray版ソフトも出荷が停止された<ref>{{efn2|[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督作品は対象外となったが、限定的なBlu-ray発売はされなかった。</ref>}}。俗に“パラマウントショック”などと呼ばれた本件に対して、当時パラマウントのヒット作である『[[トランスフォーマー (2007年の映画)|トランスフォーマー]]』の監督・[[マイケル・ベイ]]などを筆頭とした各クリエーターや識者は、パラマウントの方針を強く非難した。<ref>{{efn2|この直後、「HD DVDのリーダーメーカーであった[[東芝]]がパラマウントと18ヶ月間の独占供給契約を結び、同時に1.5億ドルの“ 奨励金 ”が東芝から支払われた」との報道もあった。[https://www.phileweb.com/news/d-av/200708/22/19141.html]<br />独占契約について、東芝及びパラマウントは、現在に至るまで公式にコメントしていないが、東芝のHD DVD撤退後に、当時のドリームワークス社CEOが「''東芝との間で結んだHD-DVD方式のみのDVDを販売する契約に依然拘束されている''」[https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-30531220080227]とコメントしている事や様々な事象から、これらの契約や報奨金の授受はあったとの見方が一般的である。</ref>}}また、規格争い終結後、ドリームワークスのCEOが、「皆さんがご存知のように、我々はHD DVDのみを独占的にサポートすることで多額の補償を受けていた」と、ロイターの取材で公言している。<ref>[https://www.reuters.com/article/us-dreamworks-bluray/dreamworks-waiting-for-cue-from-toshiba-on-blu-ray-idUSN2651290220080227 DreamWorks waiting for cue from Toshiba on Blu-ray] 2008年2月26日 ロイター(元記事・英語)</ref>
 
その後、2008年1月4日に、ワーナーがソフトリリースをBlu-rayに限定すると発表したことで、HD DVD市場が急速に終息化、2月19日には、東芝がHD DVD事業を全て終了すると発表。パラマウントも、2月21日にBlu-ray Discに再参入することを発表し<ref>{{efn2|この時点でHD DVDソフトの去就は未定であったが、最終的にはHD DVDソフトは全て生産終了となった。</ref>}}、“ パラマウントショック ”から始まった迷走は、終焉を迎えた。
 
日本市場でもパラマウント本社の意向を受ける形で日本法人が動いた事もあり、概ね同じ経緯でHD DVD/Blu-ray版ダブルリリース → 既発売Blu-ray版ソフトのリリース停止 → HD DVD版生産終了 → Blu-ray版ソフトリリース復活、という流れになった。2008年7月25日には、BOXを含む6タイトル、8作品のBlu-ray版ソフトが再リリースされ、HD DVDのみで発売されていたタイトルも相次いでBlu-ray化された。
340行目:
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
 
== 関連項目 ==