「高山樗牛」の版間の差分

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*[[1896年]]に大学を卒業。第二高等学校の教授になった。
*1897年、校長排斥運動をきっかけに辞任。[[博文館]]に入社し『太陽』編集主幹になった。当時は[[三国干渉]]後で[[国粋主義]]的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いた。一方で『わがそでの記』のような[[ロマン主義]]的な美文を書いたり、[[美学]]をめぐっては[[森鷗外]]と論争を行った<ref>[https://osaka-shoin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1319&item_no=1&page_id=3&block_id=24 鴎外樗牛対立期]谷沢永一、樟蔭国文学,17,1-10 (1979-10-10) </ref>。『太陽』1897年6月に評論「明治の小説」を、9月に「朦朧派の詩人に与ふ」を発表。
*[[1900年]]、[[文部省]]から美学研究のため海外[[留学]]を命じられた。<!---(翌年から3年)--->[[夏目漱石]]・[[芳賀矢一]]らと同時期の任命であり、帰国後は[[京都帝国大学]]の教授が内定していた。しかし、洋行の送別会後に[[喀血]]し、入院。療養生活に入った。
*[[1901年]]、留学を辞退した。病中に書いた『文明批評家としての文学者』では[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]の思想を個人主義の立場から紹介した。この年、東大の講師になり週1回、日本美術を講じた。『美的生活を論ず』(『太陽』1901年8月)は、美の本質を本能の満足にあるとしたもの。[[北村透谷]]の影響が見られるが、透谷の近代的な恋愛観とは異なり、本能を肯定する内容になってしまっている。また、[[田中智學]]の影響を受け[[日蓮]]研究を進めた。『太陽』1902年4月に、「日蓮上人とは如何なる人ぞ」を発表した。
[[Image:高山樗牛の碑.jpg|right|thumb|150px|高山樗牛の終焉の地の碑]]