「織田信雄」の版間の差分

[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]の際の動向は、はっきりしない。[[石田三成]]を支持したとも、畿内情報を徳川家康に送っていたともいう。おそらく、大坂にあって動かず、西軍と見なされたと思われる。そのため、戦後に家康から改易されてしまった。このとき、長男の秀雄も改易されている。
 
その後は大坂で暮らしながら豊臣家に出仕した。しかし慶長19年([[1614年]])の[[大坂冬の陣]]の直前に[[豊臣秀頼]]のもとを去った。当時、世間で信雄が豊臣方の総大将になるという噂も流れていたようである。
 
[[大坂夏の陣]]後の元和元年([[1615年]])7月23日、家康から[[上野]][[小幡藩|小幡]]で2万石、大和宇陀松山郡、上野国甘楽郡など35万石を与えられ再び大名として復帰した。このとき、信雄は大和に、そかし、ほどなく4男の織田信良に[[上野に入った。しかし信雄は宇陀松山]][[小幡の藩政は信良に任せて|小幡]]2万石を分け与え自らは京都に住んで茶や鷹狩りなど、悠々自適の人生を送った。事実上の隠居であったと考えられる。なお、寛永5年([[1628年]])10月には[[徳川家光]]の招きにより、江戸城での茶会に参加している
 
寛永7年(1630年)4月30日に京都北野邸で死去。享年73。後を6実質的な隠居料であった大和国宇陀郡の領地は、5男の高長が継いだ。なお、この相続をめぐり、上野小幡藩織田家側から異論が出された
 
== 子孫 ==
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