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== 歴史 ==
* [[清|清朝]][[萊州府]]濰県に所属している。
* [[民国紀元|民国]]3年(1914年)、山東省は四道に変更され、[[膠東道]]濰県に属していた。境は鄧村、新東、南劉、水浦、廿里堡、牛埠、蔡家集地区である。民国14年(1925年)、四道から十一道に変更され、濰県は[[萊膠道]]に属していた。民国17年(1928年)道は廃止され、濰県は山東省政府の直轄になった。民国22年(1933年)、濰県は十区に分割され、境は第2、第6、第8、第9、第10地区であり、一部は安丘と昌楽に属いました。[[中戦争]]の時戦争中は濰県が所有いました。民国34年(1945年)、中国共産党は濰南県を設立され、共産党の解放地区である。民国36年(1947年)、濰南県の眉村区、太公堂区、下密区、馬宿区、油房区、張営地区、馬宿南流地区、海老蟆屯地区、南流地区、油房区はほどんと共産党を支配されている。坊子鎮と荊山窪地域は国民党濰県支部を支配され、黄旗堡と荊山窪はそれぞれ安丘と昌楽に所属する。民国37年(1948年)4月濰南県が解放され、坊子鎮は濰坊特別市坊子区、その後に濰坊市の第4地区と改名された。そのほかの領域は濰南県に所属された。
* 1950年、濰南県を廃止され、濰北県に統合された。
* 1953年、濰北県は濰県に統合された。行政区画は今後何度も変更されたが、領域の大部分はほどんと県級市の濰坊市と濰県に帰属し、黄旗堡、南流、荊山窪、南流の各地域のみが安丘と昌楽に所属されている。
* 1983年10月、濰坊地区が地級市の濰坊市に改編され、同年12月に坊子区が新たな行政区画を決め、1984年1月から行政が行われた。